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さぷログ

メーカーの人事部門で働いています。

新型コロナで日本企業の教育は死んだのか

さぷさんです。教育は大事ですが、教育とはじわじわ効果が出てなかなか定量的に把握できないものなので、エース級の人材はそもそも配置されないか、もしくは配置されても兼務になっているような状態が実情でありまして、あまり自社の教育にじっくり取り組めておらず、業者に丸投げな現状があったりします。(もちろん企業によりますが)

さて、東洋経済でコロナ禍での新入社員の育成についての記事が話題になっています。

新入社員ほど「コロナで損する」日本企業の失態https://toyokeizai.net/articles/-/378491

記事の中で諸悪の根源は危機感の薄い教育担当者と経営者と書かれていますが、確かにその通りだと思うのでその事と、もう一つ記事の中で触れられている日本が強みにしていたOJTとは一体何なのか、かつては何が強味で何が駄目になってしまったのかを書いてみようと思います。

教育担当者と経営者は人材育成を効果的に行われていないということで諸悪の根源とされていますが、少し前に富士通が5000人リストラしたり、ついにトヨタが一律の定期昇給を辞めると言っているのは自社の人材育成が出来なかったとカミングアウトしているようなものです。

ただ、人材育成というと非常に抽象的な中でもうちょっと具体的に話したいと思うのですが、仮に以前は曲がりなりにも人材育成が出来ていて、リストラの必要がなかった時期と今では何が変わってしまったのかと言うことです。

富士通はご存知の通り電電ファミリーですから、バブルが崩壊する前までは電電公社の設備投資で巨額の利益があった訳です。当時の自民党も景気が悪くなってくると設備投資額を増やして景気浮揚を狙うというのをしていましたから、それで上手く回っていた訳です。

トヨタについては、CASEが自動車会社の命運を左右する中で死にものぐるいで各種戦略を立案実行する中で、定期昇給年功序列ではもはややっていけないという危機感だと思います。

つまり、富士通トヨタを例に出しましたが、日本の多くの企業は平時から戦時モードに突入していると言うことです。

平時は決められた事を決められたようにやっていれば会社は儲かった訳で、極端な事を言うと先輩の仕事をそのままトレースしていれば基本的にはよかったのだと理解しています。

要するにそもそも日本企業に有事に柔軟に対応できるような人材育成プログラムがあったのかと言えば、それはおそらくNoであって、同じことをしていたら儲かったので研修には力を入れずに現場でのOJTに頼っていたのではないかと思います。富士通で言うところの電電ファミリーのビジネスが上手く言っていた時であればこれは目的合理的です。

そしてバブル崩壊以降の失われた30年で、ついぞ日本企業は人材育成について有効な手を打たずに、経営者の怠慢と人材的に劣る教育担当者の能力不足によりずるずるここまで来てしまったのが実情だと思っています。

よく経営者は「環境の変化に対応する人材を育成しなければならない」と言いますが、実際対策を講じておらず、口だけになってしまっていたところ本当に火がついてきたという感じです。

よって日本の人材育成が新型コロナウイルスによって死んだのかというと、環境の変化に対応する人材の育成など行っていなかったので、そもそも生まれていないし、生まれてないものは死ぬことも出来ないという事なのだと思います。

そして、OJT なのですが、OJTも定義があいまいで「現場のOJT の力が弱まっている」とか言われるとなんとなくそうだなと思ってしまうのですが、本当にそうなのでしょうか。

OJTが有効なケースは一点のみあって、その一点とは「熟練者と同じ動作を繰り返す事で技能が向上する」です。

例えば、現場作業者の溶接や塗装、経理伝票の処理方法、対処方法が類型化されている法務案件などは、熟練者の作業をトレースするだけで技能の向上が可能です。

つまり、今「現場のOJT の力が弱まっている」と言う場合は、現場の熟練者がいなくなったか、そもそもOJTに適する仕事ではなくなってしまったのか、このどちらかが大きいと思っています。

トヨタでクルマやものづくりを大切にしてきたベテラン社員に対して「モノのコト化」とか言ってもピンと来ないでしょうから、そもそもゲームチェンジしてしまった状況でOJTは成り立ちません。

これから創造的破壊するという際にはOJTは極めて相性が悪いわけです。

ですので、OJTが死んだ訳ではなくて、「熟練者と同じ動作を繰り返す事で技能が向上する」以外の仕事とOJTは相性が悪い。というだけの事です。

そして、ゲームチェンジに対応してビッグピクチャーを描ける社員など早々いません。

日本という国自体がゲームチェンジするという明治維新後の明治政府において、優秀な人材が多数命を落とした事もあると思いますが、日本全体をデザイン出来る力を持っていたのは大隈重信江藤新平の二人しかいなかっというのを聞いたことがあります。

会社にもしそのような人材がいたら今は活躍すべき時だと思いますが、平時の気分がまだ抜けていない日本企業はちょっと厳しい気がします。

自分でコントロール出来ない事と欲望に上限のないモノを目標にしてはいけない

さぷさんです。ネットの片隅に生息しています。

さて、自分でコントロール出来ない事と欲望に上限のないモノを目標にしてはいけないと言うことは多分いろんな人が言ってると思うのですが、その事について書いてみます。

ブログには必ずアクセス数を確認できる機能が付いていて、一日にどれくらいアクセスがあるのか一目瞭然でわかります。

渾身の記事をアップした時にアクセスが全然上がらず、逆に何日も更新してないのに急にアクセスがアップして、それに気をよくして記事を書いたらアクセスが全然ないというのはブログあるあるですが、自分でコントロールする事が出来ないアクセス数に完全に振り回されている訳です。

僕のブログのアクセス数は1日平均10アクセスくらいのまったりサイトですから、多くの人に見られる事がない代わりに炎上する事もない訳です。

TwitterもやめたのでSNSからの流入はほぼないと思いますし、他のブログを巡回もあまりしていないので、相互はてなスター的な努力もしていません。

アクセス数の恐ろしい所は、欲望に上限が無いところだと思っていて、例えば1日に10アクセスだとしたら、100アクセスとか夢の数字だと思うのですが、仮に100アクセスを達成したら次は1000アクセスとか、欲望に上限がないと思うんですよね。仮にありえないですが、全人類70億人がアクセスしたとして、おそらく次は全人類が1日2回アクセスするとか、本当に上限がないんですよ。アクセス数は悪魔的な誘惑であるように思います。

また、他人からの評価というのもコントロールは出来ません。半期の面談でものすごく頑張ってるのに評価がイマイチだったとしたら、やる気がなくなる気持ちはとても良くわかります。

ただ、半期の評価は他のメンバーとの相対評価になるので、(いいことでは全くありませんが)次のタイミングで管理職登用しないといけないとかそういう政治的な理由で評価がついてしまうということが実際はあります。

弊社の役員とたまに話をする時に、昔の仕事について聞くと結構な確率で「上の言うことを全然聞かなかった」と笑いながら離される方がいます。短期の評価や上司との折り合いの悪さは一時的にあるかもしれませんが、長期的には実力のある人は然るべき所に収まると思いますので、短気になると損をしてしまう事もあるかもしれません。

また、欲望の上限のないモノと言えばお金をおいて右に出るものはありません。

以前佐藤優の本を読んでいたときに、情報提供の協力者で金銭を求めてくるものが一番タチが悪く、持ってくる情報もたいしたことがないと書いてありました。

お金もアクセス数同様にいくらあっても困るものではないですから、ここに取り憑かれてしまうと相当自分を見失うのではないかと思います。

例えば食事にこだわる場合だと、いくら大食漢で美食家でも胃袋の上限は超える事は出来ませんし、いいか悪いかは別にして、女好き(男好き)であったとしても、同時に何人もと付き合える訳ではありません。お金は大切ですが過度の執着は人間をおかしくさせると思います。

そして、アクセス数とお金への執着の両方をビジネスにしている情報商材屋というのが結構最悪だなと言うのがこのエントリーの結論です。両方とも欲望に上限がないものであって、それを掛け合わせて冷静な判断を失っている人をカモにする訳ですから、万死に値すると思います。

SNSを辞めてよかったことの一つに、そういう人達を見なくて済むようになったということもメリットとしてあると思っています。

とにかく自分でコントロール出来ない事と欲望に上限のないモノを目標にしてはいけないというのは肝に命じ続けていきたいと思います。(27分)

「MANGA都市TOKYO ニッポンのマンガ・アニメ・ゲーム・特撮2020」に行ってきた感想

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さぷさんです。都市論やサブカル好きなので国立新美術館で開催中の「MANGA都市TOKYO ニッポンのマンガ・アニメ・ゲーム・特撮2020」に行ってきました。

2018年にパリで「MANGA⇔TOKYO」展を開催し、3万人が来場した展覧会の凱旋展覧だそうです。おそらく当初は2020年の東京オリンピックの時期と重ねて、インバウンドの観光客も見込んでいたと思います。

しかし、新型コロナウイルスの影響によって会場の入場は時間帯毎に制限され、外国籍の人は見当たりませんでした。私たちは可能性が低かった方の世界線を生きています。ある意味現実が漫画を超えてしまった事をあらためて認識しました。

東京という都市はロラン・バルトが喝破したように中央に皇居があり、中心に意味を持たせず、いくつかのターミナル駅、幹線道路、高速道路が円環状に皇居を囲むという中空構造になっています。

また、東京は歩いているとアップダウンが思いのほか多く、複雑に入り組んだ尾根筋と谷筋によって街に自然の境界線が引かれていたりします。

一方で、大阪は南北を筋、東西を通といい、御堂筋や堺筋などの南北のメインストリートと本町通りや長堀通りなどの通りによるグリッド構造で、キタとミナミの2大商業地に代表される比較的理解しやすい都市です。

東京は後ほど説明する一点を除いて特定のイメージを拒否するといいますか、人によって想像するイメージが微妙に異なる面白い都市ということが言えるのではないかと思います。

さて、前置きが長くなりました。この展覧会は写真を撮ってよい場所がいくつかありました。

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この展覧会のオリジナルキャラクターのヨリコさんだそうです。展覧会にオリジナルキャラを用意するというのはあまりないような気がするのですが、国立新美術館の本気度を感じてしまいました。


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おそらく今回の目玉の展示である「1/1000巨大東京都市模型」です。幅約 17 メートル、長さ約 22 メートルの巨大な東京の都市模型だそうで、東京を舞台とするマンガ・アニメ・ゲーム・特撮作品の映像が流れると、その場所にスポットライトが当たるという凝りようです。

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これは「残響のテロル」で都庁が爆破されるシーンですが、そのタイミングで都庁にスポットライトが当たるというものです。この写真だとスポットライトが目立つように見えるのですが、あまりよく見えなかったような気がするのでちょっともったいないなと思いました。


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初音ミクとコンビニのコラボです。町中を歩いているとよく見る光景なので、展示する必要があるのかなと思わなくもないですが、外国の方が多く訪れる事を想定していたのかもしれません。


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これは電車の中のラブライブ広告ジャックです。背景に東京ビッグサイトの画像が流れている凝りようです。ただ、この座席レイアウトはゆりかもめの車内ではないですから、現実的にはない光景なのかなと思います。


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ラブライブ等身大パネルもありましたよ。ファンの方は嬉しいでしょうね。


写真を撮っていいのはこれくらいで、後は撮影禁止でした。展示は「破壊と復興の反復」「東京の日常」「キャラクターvs都市」という3つのテーマで漫画やアニメ、ゲームが展示されていました。以下、順不同で気になった展示物について書いてみたいと思います。

がんばれゴエモン2》
がんばれゴエモン2 [3DSで遊べるファミリーコンピュータソフト][オンラインコード]
まさか小学校の頃に遊んでいたファミコンソフトと美術館で出会うとは思っていませんでした。しかしゲーム画面をよく見ると、ゴエモンのドット絵のシルエットは浮世絵の役者絵と酷似しています。背景や敵キャラ含めてファミコンの2D表現と浮世絵の平面的な絵の特徴は非常に相性がいいのだと感じました、

34歳無職さん》《ひとり暮らしのOLを書きました》
34歳無職さん 1 (MFコミックス フラッパーシリーズ)
ひとり暮らしのOLを描きました 1巻 (ゼノンコミックス)
この2つは初めて知りましたが、東京で生きる若い女性の負の側面を書いた作品でした。根無し草的で匿名性の中で生きる苦しさを感じさせるものでした。都市の持つ宿痾ですが、貧困女子の存在等、社会課題と直結しているものです。


ゴジラシリーズ》
ゴジラ
東京が持つ唯一の統一イメージは、上記にもある通り破壊です。関東大震災東京大空襲で壊滅的な破壊を受けた記憶をゴジラシリーズは引き継いでいます。ただ、初代ゴジラが一番本能に訴えかけるような恐ろしさがあって、それが徐々に薄れていってしまったようなイメージがありました。


シンゴジラ
シン・ゴジラ
他の作品は東京の中でも一部の出来事にスポットライトを当てたものが多い中で、シンゴジラは東京の多くの地域が映画の舞台になっているスケール感があります。庵野秀明監督は、宮崎駿などの戦争世代の体験を自分ができなかった事に強烈なトラウマを持っていると思うのですが、自ら作品の中で戦争を引き起こすしかなかった庵野監督の作家としての特徴が作品によく反映されるのだと思いました。エヴァンゲリオンも展示されてますから、庵野監督はこの展示会でかなり目立っていると思います。


東京ゴッドファーザーズ
東京ゴッドファーザーズ
今敏監督の名作を見た事を忘れてしまっていました。クリスマス前に見なければいけません。


《寺島町奇譚》
寺島町奇譚(全)
1968年の作品で、戦後すぐの情景が書かれているのですが、デフォルメされているのに本当に体験したり見たりしていないと書けないようなリアリティを感じました。頭に残りますね。


東京という都市は最初にも書いたとおり、特定のイメージは付与されていない中で、作家の個性が如実に現れるよく言えば変幻自在、悪く言えばヌエ的な特質を持った街なのだと思います。

あとこれは完全に蛇足ですが、基本的に東京23区に作品が集中している中で「平成狸合戦ぽんぽこ」「耳をすませば」など、三鷹に本拠地があるからと言ったらそれまでかもしれませんが、東京西部の作品が多いスタジオジブリはかなり異色なのかなと思いました。(尚、この展示会にジブリ作品はありません)

アニメや漫画、サブカル好きならおすすめの展覧会だと思います。

「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガデン」をほぼ予習なしで見た43歳のおじさんの感想

※このエントリーはネタバレを含みますのでご注意下さい。

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さぷさんです。頑張ってヴァイオレット・エヴァーガデン書いてみました。義手が難しいです。(追記:以前は手書きイラストを載せていましたが、お絵描きツールで書き直しました)

さて、単身赴任で地方の自宅には帰れない中で、有給取得目標達成のために特に予定も無いのに休まなきゃいけない(休めという会社自体は大変ありがたい)43歳のおじさんです。

例えるならプロ野球の消化試合で、注目されるのはピッチャーの最多勝の個人記録のみであるにも関わらず大炎上し、敗戦処理で登板した2番手ピッチャーのような感じでしょうか。

そんな訳で少しでも充実した有休にすべく、今話題の「劇場版ヴァイオレット・エヴァーガデン」をひとりで見に行きました。ハンカチを2枚ほど持ち、泣く準備は万端です。

東京郊外の平日のシネコンはあまりお客さんはおらず、10名程度でした。ほぼ全員ボッチライダーで安心しました。男女比はやや女性が多かったような気がします。

僕はテレビ版を見ておらず、You Tubeで最低限の予習だけしました。世界観と神回と言われている第十話の内容だけは頭に入れました。

また、京都アニメーションが背負っているものは大変大きく、深い悲しみと苦労があって公開されたのは情報として知ってはいますが、あくまで内容のみの感想となりますのでご了承下さい。

他の方の感想にもあるとおり、映像表現がとても秀逸で、キャラクターの感情を表現しているかのような天気や第一次世界大戦前後のヨーロッパを参考にしたと思われる街の空気感、自然や花の描写など、没入感と言うそうなのですが、ヴァイオレットがその世界に本当に住んでいるような描写でした。

あと、音もとても良くて、ヴァイオレットの義手のずしりとした重みなどがよく伝わってきました。

また、ヴァイオレットがギルベルトを想う純粋な心とその表情は本当に応援したくなりました。

そのような訳で間違いなく良作なのですが、個人的に途中涙ぐむ所はあっても、号泣までにはならなかったのでその辺りについて無粋を承知で書いてみたいと思います。

《やはりテレビ版を見ないと》
テレビ版は全部で13話あるようなのですが、キャラクターへの思い入れという意味で、テレビ版を見ているのと見ていないのでは全然違うと思うんですよね。ヴァイオレットが感情を獲得していく描写やディートフリート大佐との因縁などを見ていないと思い入れが深まらないのは当然であって、反省点です。

《戦争と性の問題》
ヴァイオレットは戦争孤児という設定ですが、女性が孤児で拾われたとして、戦闘要員にするのかなと思いました。確かに強そうではあるのですが、これを言ったら話が成り立たんでありましょうという事は百も承知しているのですが、どうしても気になってしまいました。普通の戦争であれば兵士の慰安施設に送り込まれてしまいそうですが、そんな話には出来ないのは十分理解しつつも世界観の書き込みが秀逸なせいか、逆に気になってしまいました。すみません。

《軍の規律》
軍隊というのは規律が最も重要だと思うのですが、ギルベルトは間違いなく兵士の中でもヴァイオレットを優遇して読み書きを教えているので、軍の規律が乱れないのかが気になりました。これについてもそれを言っては話が成り立たない訳ですが、気になってしまったのです。

《ヴァイオレットって》
ヴァイオレットは戦争孤児で感情を知らずに育ったという設定で、他の人が感情的な共感を求めて話しかけても理屈で返してしまい、相手が苦笑するというシーンが何度か出てきます。ただ、ヴァイオレットは基本的に他者思考で論理的なので、それってもしかしてなかなか理想的だったりしますし、人の心の事も分かってきているので、人として相当完成されている中で、最早物語は少佐に会いたいの一点に絞られる訳ですが、少佐が以下の通りな訳です。

《ギルベルト、ちょっと来い》
ギルベルトはヴァイオレットを愛しているのにも関わらずにフーテンの寅さんのように流浪した挙げ句、ある島で隠居生活をしている訳ですが、そこはもう何年か経ってるんだし、お主からヴァイオレットに会いに行けよ、いいから会えよと思ってしまった訳です。

という感じで、心が純粋ではないおっさんであるがゆえ、100%世界に入り込めなかったというのが正直な感想でした。


ただ、なぜここまでヒットしてるのかなというのはいくつか思う事があったので、そのことについても書いてみます。

《全員いい人》
これは「私の家政夫ナギサさん」との類似点が指摘できると思うのですが、登場人物がみんないい人です。もしかするとテレビ版ではディートフリート大佐はいやな役だったのかもしれませんが、ヴァイオレットが落としたリボンを届けてくれたり、劇場版ではいい人です。見ていて安心でした。

《ヴァイオレットは優秀なカウンセラー》
ドールとしてとても優秀なヴァイオレットですが、なぜ人気があって予約が3ヶ月待ちなのかと言うと、クライアントが言葉に出来ない心のもやもやを的確に言葉にするのですよね。私たちもヴァイオレットに手紙を書いてもらいたいとつい思ってしまいます。

《性的な描写がゼロ》
カトレアの服装以外は性を連想させるものが「ヴァイオレット・エヴァーガデン」からはきれいにトリミングされています。キスシーンすらありません。後述しますが、ヴァイオレット・エヴァーガデンの原作は小説という事ですが、少女漫画の文脈をしっかり守っている作品なのかなと思います。

《目の幅の涙》
少女漫画特有の表現として、目の幅いっぱいに溢れる涙というものがありますが、ラスト3分の1は常に誰かが泣いていて目の幅の一杯に涙を流しています。

赤ちゃんと僕
ユリスと弟が「赤ちゃんと僕」の拓也と実にそっくりというか瓜二つで、とくに弟は顔や話し方まで実にそっくりでした。完全に泣かせにきてますし、「赤ちゃんと僕」は本当に泣けます。また漫画読みたいですね。

《男女離散もの》
離れ離れの男女が障害を乗り越えて再開する物語を男女離散ものというかどうかは分かりませんが、「君の名は。」とか「タイタニック」とかずらり名作が揃う訳です。個人的には「エウレカセブン」でアネモネとドミニクが空中でフリーフォールしながら再開するシーンがあるのですが、あの再会が最高でした。あ、「ヴァイオレット・エヴァーガデン」の話ではなくなってしまいました。

《情景描写とか》
ヴァイオレットとギルベルトの出逢いに暗雲が垂れ込めているときは土砂降りですし、心理的な描写と情景の描写が見事にシンクロしています。また、ヴァイオレットは髪を2つお団子にしていますが、片方は戦争のトラウマと、もう片方は心を取り戻しつつある方を象徴しているのだと思いました。ヴァイオレットが2つに引き裂かれている事を義手で象徴的に表現していますが、それを強固なものにしていると言うことです。そのバラバラの心を一つに統合するためにエメラルドのブローチが存在しているという構図なのだと理解しました。

《テクノロジーの進化というね》
電話の発達によりドールの仕事がなくなろうとしている時代の残酷さも書かれていますが、その電話が終盤に重要な役割を果たしたりします。ただこのシーンは結構バタバタな感じで完了して、あっさりめの味付けでした。


そして最後におっさんがヴァイオレット・エヴァーガデンを見るという事についてです。

《いつかの花火》
2児の父親の僕にとって恋愛は「遠い日の打ち上げ花火」であり、遠くで上がっているものをきれいだなと眺めるようなものでした。ヴァイオレット・エヴァーガデンの「あいしてる」は文字通りの相手を慈しみ、かけがえのない唯一無二の人として想い続けるという気持ちです。

そんな訳で20代の頃に5年付きあった彼女と遠距離恋愛になり、2年であっさり別れた記憶がこの映画で蘇るという不測の事態を迎えましたが、個人的には恋愛はもう十分なんです。

むしろ家族愛の方が強くなってるので、ユリスのシーンの方が泣けたというのが正直な感想です。

と、無粋な事を書き連ねてしまいましたが、冒頭に書いたとおり世界観が秀逸でヴァイオレットが尊い訳です。つらい戦争の記憶のシーンは随所に出てきますが、基本的に今は平和な時代で、登場人物も皆善人です。

新型コロナウイルスでついに現実がドラマを超えてしまった中で、安心して見る事が出来る作品という事も言えるかもしれません。

そして、今好きな人がいたり、遠距離恋愛中の人にはとてもぴったりな映画だと思います。

残念ながら僕は「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガデン」と出会うのがちょっと遅かったようです。でもそれがあらためて分かったというのもまた素晴らしいことです。

Twitter世界トレンド1位

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さぷさんです。Twitterは二度とやりません。

さて、この画像はTwittrendの2020年9月27日22:00で検索して出てきた上位項目です。

ドラマ半沢直樹の終了間際で「#半沢直樹」がTwitterトレンド世界1位!みたいな感じでYahooニュースの掲載記事などかなり盛り上がっていましたが、この時間帯の全世界の2位は「#Azerbaycan」でした。

アゼルバイジャン領土内のアルメニア人が実効支配している係争地での大規模軍事衝突で民間人の犠牲者も出ているそうです。両国に影響力があるトルコとロシアが内政にかかりっきりになったところで暴発したようなのですが、恥ずかしながら初めて知りました。

アゼルバイジャンアルメニア、軍事衝突の背景とは|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
https://www.newsweekjapan.jp/amp/stories/world/2020/09/post-94573.php

意識が高ければいいという訳ではないと思いますけど、世界中がアゼルバイジャンアルメニアの紛争に注目している中で、しかも3位は「#さ行に恐怖症つける見た人強制」というハッシュタグ大喜利だと思うんですけど、全世界に向けて日本人は馬鹿なんじゃないのというのを発信しているような気がしてきました。

といいますか、全世界70億人(中国は除くので55億人くらい)に対して1億人ちょっとで世界トレンド1位とかばんばん取るわけですから、日本人のTwitter好きと同一話題好きは相当なものだと思います。

ネットで盛り上がることを祭りと表現することがありますが、祭りというのは年に数回だから良いのであって、ほぼ常時何処かで祭り状態のTwitterというのは、精神的な興奮を続けさせるよろしくない効果があると思います。

個人的にはTwitterをやめて正解だったと思います。平穏で変化が乏しいから精神の安定が保てますし、年に数回のお祭り的なイベントもより楽しめると思うのです。

そのうち契約結婚みたいになるので安心してほしい

さぷさんです。週末にヴァイオレット・エヴァーガーデンを見に行こうと思います。愛してるって何なのでしょうか。

ジャパンでは年間約60万組が結婚して20万組が離婚し、不倫のニュースは途切れる事無く、そしてそのニュースを東京で見ている単身赴任かつ地方の自宅に帰れない僕は、そういえば嫁の肉声を最後に聞いたのは一体いつだったのかと途方に暮れる43歳の秋です。朝晩涼しいですね。

さて、僕の結論としては、女性が男性を好きと言うのは「あなたの子供を産みたい」という事に尽きるのではないかなと思っています。(ちょっと申し訳ないですが、LGBTQの方を議論の対象にするとややこしくなってしまうのでヘテロセクシャル限定にします)

女性の愛情曲線という有名なグラフがありますが、パートナーへの愛情は確かご懐妊するまでがマックスで、子供が産まれてからは回復(それでもマックスにはもどらず低位安定。燃え盛る炎ではなくて、とろ火とかなんとか)と地に落ちるケースがあるみたいです。

女性にとって男性というものは子供が産まれた途端に最愛のパートナーから、外から訳の分からんウイルスを持ち込み最愛のベイビーに危害を加えかねないクリーチャーに成り下がる訳でありまして、ここに納得いかない男達が不倫に走りやすく、週末は良いパパを演じつつ、不倫相手に「子供かわいい?」とか言われて「いや、、、ちょっと」とかなんとか誤魔化そうとして修羅場を抱えている万死に値するだめんずも相当数いたりします。

うちは息子たちがふたりいる訳ですが、子孫を残すお勤めは一応果たした訳でありまして、よくセックスレスが問題になったりしますけど、お勤めを果たした中で致す積極的な理由がもはや残念ながらないんですよね。ないのが普通という世の中になってくれないかなと心から祈っています。

もちろん、夫婦ですから運命共同体として子育ての完遂と終活に向けてのあれやこれやがありますから、大切なパートナーではあり続けて欲しいしですし、パートナーに対する自分の努力も必要である事は間違いありません。

離婚が多いのも、お笑いコンビの不仲が多いのも、身近すぎて相手へのリスペクトをなくしてしまい、むき出しの感情を相手にぶつけてしまうからに他なりません。

自分以外は他者であり、敬意を持って接しなくてはならないというのは誰に対しても基本姿勢として持つ必要があります。

自己と他者が未分化というのは赤ちゃんと同じです。自分の不快は世界の不快だということにしていいのは赤子だけです。

パートナーを他者としてリスペクトして接すること、これはもはや契約結婚とあまり変わりがありません。

という事ですので、いくら恋愛結婚したとしてもいずれ契約結婚みたいになっていきます。最初から契約結婚だと後がなかなかしんどいんじゃないかなと思います。

役割や使命感から降りる

さぷさんです。だいぶ復活してきましたが、6〜7 月頃はメンタルが最悪でした。

緊急事態宣言で今後どうなるか分からず、地方で暮らしている家族とも会えず、そしてなぜか新型コロナウイルスについて、データがちゃんと分析されていないという疑問から謎の使命感で東京都とかの新型コロナウイルスに関するデータをエクセルで分析して、ブログやTwitterにアップしていました。

今思うとなぜそんな事をしたのか謎でしかないのですが、当時は真剣です。いろいろ情報を発信するもののこんな辺境のブログや当時のTwitterではアクセスは当然伸びずに悩むという悪循環になりました。(今考えると完全にアホですが。。。)

また、仕事も普通にありますから、仕事のパフォーマンスも下がっていたと思います。

こういう時に危険なのが、自分が正常じゃなくなっている時は正常な判断が出来にくくなるという構造的な問題があるという事です。

自分がおかしいという事を自分ではそのように認知できないというのは本当に恐ろしい事です。

ただ、僕は過去似たような痛い目にあってきたので、さすがに学習していたのか、「こういう時はとにかく寝るのがまず大切だ」と思って睡眠時間を多く取るように心がけました。

また、Twitterやブログにかなりの時間を割いており、特にTwitterは中毒性が高いとあらためて気付きました。そして、良くも悪くもTwitterなどのSNSは感情を増幅する装置なので、距離を置かねばならないと思いました。

そして、新型コロナウイルスに対して自分が何か情報を発信したほうがよいという謎の使命感もきっぱりやめる事にして、Twitterのアカウントは削除し、ブログの新型コロナウイルス関連のエントリもほぼすべて削除しました。

それからメンタルは劇的に向上したので、この判断は間違っていなかったと思います。

新型コロナウイルスの情報を発信するという事はマスコミがやってくれますし、自分はマスクを着用してソーシャルディスタンスを守る良き市民で十分だと思う訳です。

ですので、メンタルが弱ってる時は役割や使命感からまず降りるという事がとてもたいせつだと思います。

今、芸能人(特に俳優や女優)の方の自殺が立て続けに起きており、大変痛ましいのですが、俳優や女優の方は世の中から理想像を押し付けられやすく、常に好奇の目に晒されるというプレッシャーがあると思います。

芸能活動というものはファンに支えられた人気商売という側面もあると思うのですが、SNS 等で情報発信されている場合は、本当はしんどくてもあまりネガティブな事は言えず、理想像としての役割を自らの使命感としてポジティブなふりをし続けないといけないとしたら、相当なストレスだと思うのです。

一般人であれば、その役割を降りたり軽減するというのは当人と家族などにとっては一大事かもしれませんが、世間からあれこれ言われる事はありません。

理想を体現していると思われている有名人として、役割や使命感から降りる事が出来ずに、本当の自分と役割としての自分のギャップが耐えられないほどに乖離してしまい、死をもってして役割から降板するしかなかったのだとしたら、そこまで追い詰めたのは私達無名の一般人なのかもしれないと思ってしまいます。

ご冥福をお祈りいたします。