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さぷログ

メーカーの人事部門で働いています。

みかんのリスク管理はすごいよねって話と戊辰戦争

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さぷさんです。我が家にはネザーランドドワーフのもこちゃん♀おわしますわけですが、血統書付きの箱入り娘のエサ代が正直ちょっとかかる中で、試しにくず野菜を乾燥させたものを食べさせてみたところ、もこさまはかなりお気に入りのご様子だったので、定期的にバルコニーでドライベジタブルを作っています。

気温にもよりますが、だいたい3日くらいでいい感じに乾燥するような塩梅です。やはり人参が好きですね。

そんな中である日親戚から大量の酸っぱめの柑橘類を貰いまして、家族がほとんど食べない中で、「そうだ、ドライフルーツにしてみよう」と思い立ち、皮を全部剥いて同じ要領で乾燥させたところ、一週間くらい経過してもまだ全然ドライフルーツになりませんでした。

あらためて考えますと、柑橘類は相当に乾燥に強い構造になっているなと思った次第なのですが、まずいちばん外側の皮に守られている上に、さらに房があって、その中に果肉がある作りになっている訳です。

果物は種を守り、無事に発芽させる使命があると思うのですが、リスク管理の視点から見ますと、植物にとって一番恐ろしいのは乾燥です。

つまり、乾燥に対抗するための防御策として、外皮、房、つぶつぶという3つの関門によって乾燥の脅威から種を守っているということがいえると思います。

さらに、房も複数あるわけですから、いくつかが破れて乾燥したとしてものこりの房が生き残ればいいわけです。

さらにふさの中にあるつぶつぶ(正確には砂じょうというらしいですが)の数はかなりの多さですから、乾燥から実を守るという意味では相当に工夫された形態であるのではないかと我が家の狭いバルコニーでしみじみと感動しておりました。まさかみかんにリスク管理の真髄を学ぶとは思わなかったです。多層防御ですね。

そんな中でふと疑問に思ったのが温州みかんです。

温州みかんは当然種がないわけでして、守るべき主のいない城のような状態で人間に食べられることをよしとするのは、武士として一体どういう了見なんだろうと思いました。いや、武士ではないんですが。

ググッてみたところ、温州みかんは受粉無しで果物ができる特性(単為結果性)を持っていて、花粉の受粉能力が低いから種無しみかんができるということなのですが、そんな人間に都合のよい生き方でいいのかとついツッコミを入れたくなる気がしなくもありません。お主は何のための3層構造なんだよと。

で、話は急に変わるんですが、僕の中で戊辰戦争もよく分からなくなってまして、徳川慶喜はさっさと大政奉還してしまった中で、守るべき殿様がいなくなってしまったにも関わらずに戦い続ける意味がいまいち理解できていないんですよね。

ウィキペディアを見ますと、函館戦争は「封禄から離れた旧幕臣の救済」を目的とする「士族反乱の先駆的形態」だそうですが、相手が新政府軍というのはどう考えても分が悪すぎます。

幕末史はあまり詳しくないので、榎本武揚土方歳三の小説でも読んでみようかと思います。みかんを食べながら。

いざこざやトラブルには強力な調停者が必要

さぷさんです。シネコンで「シン・エヴァンゲリオン」を見てから約一年が経つのですが、なんとなくまた見たくなってアマプラで見てみました。

そしてあらためて気づいたのは、真希波・マリ・イラストリアスの出番の多さとその重要性でした。

オープニングのパリ旧市街での戦いから始まり、第三村パートでの出番はありませんでしたが、それ以降はほぼ出ずっぱりと言っても過言ではないかと思います。

マリの初登場は「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」ですから、キャラ的には新参者であるのに、「シン・エヴァンゲリオン」ではシンジくんを除くと主役といっても差し支えない活躍っぷりと、多くのエヴァファンが驚いたマリエンドでした。

巷では、マリは庵野秀明の奥様の安野モヨコではないかとの意見が多かったと思いますが、庵野秀明も確かにそのへんは否定していた記事を見た記憶がありますし、そう単純な投影ではないと僕も思います。

僕が思うマリの理解は、デウス・エクス・マキナと言いますか、これが言い過ぎだとすると狂言回し的な役割としてエヴァを終わらせるためのキャラクターだったのではないかと思っています。

それはもしかすると本来は渚カヲルの役割だったのかもしれませんが、シンジくんを立ち直せるためにループものを思わせるような棺が月に数え切れないほど並べられてしまうという、「オール・ユー・ニード・イズ・キル」のトム・クルーズも真っ青になりそうな運命を押し付けられてしまい、その氏名の通りエヴァQではDSSチョーカーの呪いを引き取って死んでしまいます。

シン・エヴァでも終盤の大切なシーンで復活しますが、ほぼ万能でシンジくん全肯定のカヲルくんを持ってしてもエヴァの物語に組み込まれてしまい、そこから抜け出す力を持たせられなかったのだと思います。

それほどまでに庵野秀明の自己嫌悪の感情が強かった言うことだったのだと思うわけですが、調停者というのは既存の物語に属すことなく、それ故に「それって別にどうでもよくない?」みたいな感じで解決の道筋を強引につけてしまい、実際にそれを達成してしまう人であって、エヴァという物語はマリという調停者を必要としたのだと思っています。


さて、ここからは話が全然変わりますし、スケールが小さくなってしまいますが、僕が今の会社に入ってからのおそらく最大の貢献は中途入社してから確か2年目くらいのシステムの大改修だったと思っています。

全社的なシステムだったのですが、コード体系がめちゃくちゃになってしまっており、全く理解が出来ないものになっていました。

複雑さによるミスも頻発していましたし、BIツールを使用して偉い人も見れるようになっていたのですが、見たところでさっぱり理解ができない中で役員が怒ってしまい、そのシステムのおもりについてまだ一年ちょっとの僕が改修を担当することになったのですが、ある意味役員案件ですし、僕も個人的にもまずいコード体系だとは思っていた中で、最終的にはかなりの金額をかけて、冗長性も考慮したコード体系にすることができました。

なぜ僕が入社してまだ間もないといえる時期にこういう仕事ができたのかと今あらためて考えますと、逆に入社して間もない時期で、アウトサイダーとしての立場を有効に使えたので、仕事を完遂できたのではないかと思った次第です。

おかしいことをおかしいと言えるのは(言い方は気をつけなければならないものの)最大の強みと言えますので、当時の僕は「これっておかしいですよね?」というのを自分の立場を使いつつ、ステークホルダーに説明して回ることで、同意を取り付けることが出来たと思います。

今は逆に会社の所属歴が長くなってしまい、既存の仕組みを支えている側である中で、抵抗勢力だけにはなりたくないと思っています。

前例踏襲は楽ですが、やっていることが昨日と同じということばかりでは、進歩がありません。


さて、また、話は全然変わりますが、調停者といったときに頭に思い浮かぶのが日露戦争の講和の調停役であるセオドア・ルーズベルトです。

吉村昭ポーツマスの旗はぜひ読んでおく名作だと思いますが、この頃の戦争はまだぎりぎり騎士道精神が残っていると言いますか、日本海海戦で破れたロジェストヴェンスキー中将も捕虜になっても堂々とした振る舞いですし、ポーツマス条約の締結における米国の立場は、米国のアジア戦略もあって、終始日本寄りでしたが、調停者として戦争を集結させる役目を果たしたと思います。

翻ってロシアのウクライナ侵攻ですが、ロシア側の内在理論としては、伝統の南下政策がありますし、衛星国を緩衝帯としておきたいというのは、ナポレオンとヒトラーにそれぞれモスクワ陥落直前まで攻め込まれたという国家のトラウマがあり、身内だと思っていたウクライナNATOに加盟しようとするということは、ロシア側からすると到底認められない行動だという思考は理解できますが、それを持ってしても民間人を巻き込んだり原発施設に攻撃したりする暴挙は到底認められるものではありません。

ただ、逆に言うとロシア側の主観としてはそこまで、追い詰められた上での軍事行動ということだったのかもしれません。

日露戦争では調停者だったアメリカという国自体が内戦というか、分断のような様相を呈してしまい、調停が出来るような国が見当たらない中、今回はロシアが悪手を打ち続けているので民主主義国家や企業はロシアへの制裁になんとなく一枚岩になりつつあるように感じます。

ただ、今回のロシアのように明らかに他国から見れば大義のない侵攻ではなく、もっと狡猾な戦略とその実行であった場合は、強力な調停者なしには和平の道筋を描くことが難しいと思いますが、私達はそのような時代に突入してしまったのかもしれません。

雑記20220217

さぷさんです。書くことは業を背負うということでもあるかなと思ったりしております。

〈アンチ的な〉
僕が書いたエントリの中で、三びきのやぎのがらがらどんに関する書評があるのですが、数ヶ月前にやたらページビューが増えたので、掲示板に貼り付けられたなと思っていました。

そのことについて忘れていたところ、パソコンではてなブログダッシュボードを見ますと、リンク元が参照できるのですが、ちょっと見てみましたところ、どういう文脈で参照されていたかというと「一ミリも同意できない」とか「タイトル見てブラウザバックした」とか、それはまあネガティブなご意見でした。

否定的な意見であってもハッとするような内容であれば傾聴に値するのですが、根拠が書かれてなかったり、一文を取り出して曲解していたりして、読解力がない状態でマウンティング取ろうとするとこうなるんだなというのをまさか弱小ブログの自分のエントリーで感じるとは思いませんでしたが、残念な感じでした。

知的に誠実な態度とは、相手の思想やロジックを理解し、自分の思想やロジックと対比の上で差異について議論する事だと思うのですが、世にある多くのクソリプに関する嘆きを見るとおそらく幻想なのかなと思います。

結局人は己の認識の範囲でしか世界を理解できないので、人はわかり合えないことがあらためてよく分かりました。

〈わからないと言えば〉
世の中分からないことだらけではありますが、一番当てにならないのは経済評論家の株価や景気の予測です。

専門家の予測で信頼できる分野と信頼できない分野の差は、その出来事に再現性があるか否かだというのが、ダニエル・カーネマンのファストアンドスローに書いてありました。

確かに経済は要因が絡み合った上での景気なり株価でしょうから、過去の経験がほぼ使えないとなると、結局は当てずっぽうで外れやすいというのは分かる気がします。

数ヶ月前までは、まだ米国株が好調だった訳で、こうなることがわかってたら僕もネットフリックスの株は買わなかった訳です。

〈やはりFIREの記事はなくなった〉
そんな中で、FRBの資産購入でノーリスクハイリターンの米国IT株に支えられていたFIRE界隈の皆さんにおかれましては沈黙は金なりの状態になっているのではないかと思いますが、本当にすーっとFIRE関係の記事がなくなったのはなんとも言えない趣があります。

年4%のリターンは多分夢のまた夢で、逆回転した中でどうされているのかお伺いしたいなと思います。

ちなみに僕はマイナス8%くらいの運用成績で、まだ二桁のマイナスには到達しておらず、実質勝ちだと思っています。

〈勝ち負けといえば〉
今は冬季オリンピック真っ盛りですが、羽生結弦選手の人気は凄まじいものがあるとあらためて思いました。

会見で印象的だったのが、「9歳の自分がずっと飛べと言っている」というご発言でしたが、羽生結弦選手はイマジナリーチャイルド(という言い方が適切かどうかわかりませんが、イマジナリーフレンドではないので、仮にイマジナリーチャイルドとします)と会話をしているというのが衝撃的でした。

何が衝撃かと申しますと、自分を叱咤激励する別な自分が常にいるということですから、自分の中だけで相当レベルの高いコーチングを実現してしまっているということなのだと思います。

本田圭佑選手もリトルホンダがいるという話でしたし、古市憲寿氏もイマジナリーフレンドと会話しているそうですから、世の中のトップにいる人の一部は自己との対話を繰り返す事で研鑽を積んでいるのではないかと思いましたが、圧倒的なパフォーマンスを発揮する人の思考形態を知ることが出来たのは良かったと思います。

こちらからは以上です。

研修担当者は仕事をやったフリばかりの人なのか

さぷさんです。大企業で研修担当者だったことがあります。

さて、ちょっと前にリンク先の記事がバズっていました。

「仕事やってるフリ」ばかりしてた人の話。
https://blog.tinect.jp/?p=74400

ものすごく要約しますと、研修の効果測定を無料で申し出たところ先方に断られてしまった。研修の効果がないということが分かったら面倒くさいことになるからだ。仕事をやってるフリばかりする人は多い。それって良くないよね。

というような内容です。僕も研修を担当していましたが、おそらく同じような申し出があったとしても丁重に断ると思うのですが、僕も仕事やってるフリばかりの人なのでしょうか。ちょっと考えてみたいと思います。

まず、前提としてこのリンク先の記事を見た印象ですが、この方が扱っていた研修とは、大企業で実施されている階層別研修なのではないかと思います。

管理職登用時の研修など、定期採用で入社した社員が昇格等の節目節目で受講することになる研修なのですが、大体はリーダーシップ、コミュニケーション、コンプライアンス、ハラスメント防止などを3日間くらいで実施するようなカリキュラムが大企業では一般的だと思います。(コロナ禍になり、今はリモート研修が増えていると思いますが)

よくある例として、リーダーシップやコミュニケーションなどの講義を社外に依頼し、コンプライアンスやハラスメント防止などは社内講師が務める事が多いと思います。

ですので、リンク先の著者が無料の効果測定を申し出たのはリーダーシップやコミュニケーションがどのように向上したのかを定量分析するという提案だったと推測します。

ここで一旦遠回りになってしまいますが、階層別研修と対比する研修として、職能教育というものがあります。

例えば、CADの使用方法の講習や営業アポイントのとり方など、より実践に即した教育を指します。なぜ職能教育の話をしたかというのは後で説明します。

さて、研修の効果測定として最も有名なのはカークパトリックの4段階評価法です。以下の記述はリンク先に記載されているものをお借りました。
https://www.elc.or.jp/keyword/detail/id=82

レベルが上であるほど効果的な効果測定が出来るというものです。

・レベル1:Reaction(反応)
受講直後のアンケート調査などによる学習者の研修に対する満足度の評価

・レベル2:Learning(学習)
筆記試験やレポート等による学習者の学習到達度の評価

・レベル3:Behavior(行動)
学習者自身へのインタビューや他者評価による行動変容の評価

・レベル4:Results(業績)
研修受講による学習者や職場の業績向上度合いの評価

ぱっと見てまともな事が書かれているので、この手段で研修の効果測定をすればいいのではないかと思ってしまいますが、実際はそう簡単ではありません。

リーダーシップやコミュニケーション能力など、レベルが高い人がいるのは確かですが、前述の通り、このような能力を駆使するマネジメントというものは全人格的に行われるものです。

つまり、生まれもった気質、今までの全経験、思想信条などが分かちがたく総合的に発揮されるものがリーダーシップやコミュニケーションですから、階層別研修で身についたものなのか否かという腑分けした定量的な把握は個人的には不可能だと思っています。

一方でCADのスキルや営業のアポイント成功率など、職能教育については効果測定が可能だと思います。なぜなら、そもそも職能教育は具体的なスキルアップを目的としており、ある程度テクニックで再現可能性がある内容であるためです。

リーダーシップやコミュニケーションなどの研修の効果測定を一度でも真剣に考えた担当者は基本的にこの壁にぶち当たってますので、そもそも無理筋なリーダーシップやコミュニケーションの効果測定で社員をモルモットにされたくないと思うのは研修を委託している企業側としてはほぼ想定される反応だと思います。

最近もリスキリングやDX人材の育成に関する記事が日経新聞によく載っていますが、基本的に人材育成は自己啓発OJT、off-JT(集合研修)の順序で大切であると言われて来ました。

ただこれは高度成長期くらいの人材育成でよく言われていたことで、今の風潮とは異なる部分があるのですが、日本の大企業はそもそもoff-JT(集合研修)に期待していないという不都合な真実があります。

つまり身も蓋もない言い方をしてしまうと、終身雇用前提の企業における階層別研修は管理職登用時などのセレモニー的な色合いが強く、どちらかというとロイヤリティの強化や他部門との交流などが実は主な目的だったりする訳です。

つまり、企業側が研修の効果測定をやりたくない理由は、そもそも階層別研修内容に期待していないということと、そのような枠組みの中でもなんとかリーダーシップやコミュニケーションに関する研修実施効果を高めようとして効果を確認したいと思ったとしても、全人格的に行われるこれらの能力は切り出して把握できるものではないという二重の困難さがあるためです。(僕もこの大きな構造に気が付くまでは研修の効果を真面目に測定したいと思ったことがありました。若かったですね)

ですので、一番上のリンク先の記事は半分は合っていて、半分は外れていると思います。

企業はそもそも研修自体に期待していないという意味ではやったフリの仕事の最たるものと言えますが、ではリーダーシップやコミュニケーションの効果測定をやったところでうまく行かないのは目に見えています。

そして、上記エントリーでは、研修担当者の残念さをこれでもかと書かれていますが、企業側にとってさらに不都合な真実は、研修担当者にエース級は配属されることはまずありませんので、残念な人材に遭遇する可能性が高くなります。

それは仕事をやったフリではなくて、そもそも仕事が出来ないという救いのない事実なのですが、書いていて辛くなってきたのでこの辺でやめておきます。

あと、研修の効果測定は未だ有効なものは開発されていないと思っているのですが、上記エントリーの筆者の方がどのような効果測定を実施されようとしていたのか気になるといえば気になりますね。

言いたいことがなくなってくる件

さぷさんです。44歳のおじさんです。

さて、僕のブログの更新回数が金曜ロードショージブリ作品を放送する回数よりも減ってきてしまったわけですが、このことについて考えてみたいと思います。

僕も若かったつもりがいつの間にかいいおっさんになってしまった中で、44歳にもなりますと、いいんだか悪いんだか別にして、世の中との折り合いがついてきます。

妻、子供たち、会社、友人、親、親戚、地域との折り合いということですね。

僕の視点からすると、いろいろあるけれどもみんな頑張ってるよね。コロナで大変だけど、なんとか生活できてるだけでありがたいよね。という感じです。

一方で僕の周囲の人も僕の性格を分かってくれているので、コンフリクトの発生はそんなにない訳です。

そうするとどういう事になるかと言いますと、特段ブロクで発信しようというモチベーションがなくなってしまうんですよね。「すべてのことがありがたいですよね、以上」みたいな感じです。

ただこれは折り合いがついたからだけではなくて、僕自身の生物としての熱量が低下しつつあることも関係していると思います。

たとえばこの前ふと思い出したのですが、少なくとも20代の頃はかなりの脂性肌で、あぶらとり紙が手放せない状況にありました。

いつの頃からかあぶらとり紙の購入の必要がなくなった訳ですが、要するに代謝が活発ではなくなったということだと思います。

熱量の低下がもたらす作用としては、例えば本を呼んだり新たな知識を身に着けたりしたときに、それを人に伝えたいというパッションの低下です。

ちょっと面白い視点の考えを思いついても、エントリの更新が面倒だったり、他の誰かが似たような事を言っているからいいかあというメンタリティになって早数ヶ月です。

この熱量低下問題はもちろん仕事にも影響を与えておりまして、以前なら残業して乗り切った仕事も多いのですが、今は本当に19時を過ぎると何も手につかなくなるので、「明日の自分に期待」と言い聞かせて仕事を切り上げたりします。

よく若い人は働かないおじさんを目の敵にされますが、本当に体力が持たないというのは若い人も10年後とかに分かると思います。

ですので40代半ばを過ぎて積極的に情報発信をしている人は本当に尊敬します。

ただ、そういう方のエントリーを読んでいると、何か達成したい事があって、それに向って突き進まれているのかなと思います。使命感をお持ちなのだと思いますが、僕は残念ながら何か使命感を感じるような対象がなく、そういう人たちを羨ましいと以前は思ってましたが、中庸な生き方も別に悪くはないなというような心境です。

ただ、この状況というのは実はかなり恵まれていて、男性大企業勤務という状況に担保されている事は間違いありません。

痛ましい事件のニュースは数多報道されており、理不尽が多い世の中において自分とその周囲だけがよければいいのかという思いはありつつも、具体的には何かアクションを取れているわけではありませんので、なんとなく後ろめたい気持ちはあります。

話を戻します。ブログで一番良くないのは、書きたいことがないのに無理やり書こうとすることで、そういう時の文章をあとから読み返すと「うわぁ、なんかこれはまじでひでえな」と思います。文章は精神状態が如実に現れるものです。

また書きたいネタが降りてくる可能性はあるとは思うので、ブログの神様に期待ですね(他力)

FIRE終了の件

さぷさんです。僕はお小遣いでこつこつ投資をしている訳ですが、昨年10月頃に不覚にもFIRE(Financial Independence, Retire Early)関係の記事に影響されて日本株より米国株かと思い、ポートフォリオを入れ替えました。

米国株のいいところは一株単位で株を購入できるところだと思うのですが、例えば本日時点でアップルの株は166ドルで買えますし、スターバックスは96ドルです。

「卵を同じかごに入れるな」という投資の格言からいきますと、ミニ株をやるという選択肢を抜きにするとお小遣い投資家にとっては米国株の方が適しているかなと思います。(為替リスクは怖いですけどね)

日本だと100株単位でしか株は購入出来ませんので、ディスコの業績がよいなと思っても330万円ほどかかりますので、とてもじゃないですが購入することが出来ません。

そんな中で、利益が出ていた日本株以外は全部売り払ってナスダックのIT関連中止のポートフォリオにしたところ、FRBのテーパリング終了ということで資産バブルがついに弾けたのか、連日強烈な資産目減りで絶賛大爆死中です。

確かに今までがノーリスクハイリターンという異常な状況ではあったのですが、FRB新型コロナウイルス前は日本円換算で400兆円くらいだったバランスシートを990兆円まで拡大させていましたし、中央銀行はインフレ防止という使命があるので仕方ないのは分かるんですが、大爆死です。(大事なので2回目)

そして逆に少し残していた日本株は、バリュー株だったりしましたので、今は株価が上がってきたというなんだか複雑な心境になっております。

ですので、FIREなみなさまは空前の株高の中で特にIT関連株に投資していたんじゃないかと思うんですが、どうなんでしょうか。

個人的にはYahooニュースあたりを賑わしていたFIRE関係の記事は今後見かけなくなるんじゃないかと思います。はい。

雑記20220111

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さぷさんです。久しぶりのエントリーです。

〈萌えイラストが上手くなった(自分比)〉
年末年始はどこも行かずに暇だったので、スマホで萌えイラストを描いてました。デジ絵歴は1年ちょいなのですが、おそらくこの1年で400〜500時間くらいデジ絵に費やしています。

もうSNSはやらないと宣言したんですが、絵を描いたら公開したくなるのが人情でして、それなりにいいねをもらえる中で、自己承認欲求を満たしていたりします。

ちなみにこの絵はホロライブ4期生の常闇トワ様とラプラス・ダークネス様ですが、割と尊さを表現できたかなと思いつつ、44歳のおっさんが何をしているんだ自分はという気がしなくもありません。

〈やる気になればタダでいろいろ出来る恐ろしい時代〉
僕のデジ絵は完全に独学ですが、お絵描きツールをスマホに入れて、さいとうなおき先生のYouTubeの動画を見て勉強しつつ、構図はPinterestで探すという手法で絵を描いています。

優良なアプリやYouTubeなどの動画のお陰で良いツールと情報に対して格段にリーチしやすくなっており、やるかやらないかは本人のやる気次第でありますから、言い訳が出来ないというある意味おそろしい時代を我々は生きています。

〈でも本当にそうなのか〉
ただ、僕がデジ絵で出来たことを英語学習に転用することができるかと言いますと俄然怪しくなります。

英語のアプリをいくつかスマホに突っ込んで、YouTubeでビジネス英語の動画をひたすら見ればいいという理屈になりますが、全く出来る気がしません。

AIも同様で、パソコンにPythonをインストールして、GitHubでコードを見ながらプログラミングをすれば、元コボラーの僕でも最先端のIT人材になれるはずなのですが、その気配はありません。一体全体なぜなんでしょうか。


〈おそらくは〉
僕は幼少期から絵を描くのが好きで、基本的には何時間絵を描いてても苦ではないですし、小学校の時にはクラスでコンクールに出す絵に選ばれたこともありました。

僕にとって絵を描くことはそもそも好きなことですし、好きでやっているので努力しているという感覚もあまりありません。

おそらく、対象物は違えど英語なりプログラミングなりが大好きで、本人は努力しているという感覚はなく、好きだからやっているし、なんか周りもすごいと褒めてくれるのでさらに頑張れるという人が世の中にはいるのだと想像します。

僕は、超絶技巧絵師には敵うとは思いませんが、上に描いた方法を試したらそれなりの絵が誰でも描けるんじゃないかと思ったしています。

でもこれは多分僕が英語やプログラミングがさっぱり出来る気がしないのと同様で、同じメソッドを試しても出来る人とそうでない人がいるのだと思います。これはおそらく勉強、スポーツ、趣味などあらゆる分野に当てはまります。

〈努力は無駄なのか〉
そうすると努力は無駄なのかという絶望的な気持ちになりかけますが、努力は無駄ではありません。

ただ、同じ分野で努力しているという自覚なしに楽しんで対象分野に取り組んでいて、しかも元々才能がある人がライバルにいたりする訳です。このような人達に勝てるわけがありません。

〈では自分の得意分野は何なのか〉
仮に僕が若い頃からイラストに全リソースを割いたとしても、それで食べていけかたかと思うと、イラストを描きたい人は山程いる中で、成功した可能性は低いと思います。

僕は絵が好きですが、二人の息子たちには遺伝しなかったようなのです。

生まれもった才能や特性というものが現代社会で稼ぐ能力として発揮できる人はごく一部なのではないかと思います。

自分の得意分野を職業にする事が出来ればそれは幸せな事ですが、そうではない人が大半だとすると、神様はなかなか残酷な事をしてくれたなと思わざるを得ません。

〈という上記の考えはメリトクラシーに絡め取られている〉
マイケル・サンデル先生の本などを読んでいると、最近はメリトクラシー批判が少しずつ出てきていると思います。

メリトクラシーの問題は大きくは2つあって、元々恵まれた才能をもち、良い環境で親や周囲の手厚いサポートがあって社会的に成功している人が、その成功を自分の努力で成し遂げたと思い込みやすいことにある事と、元々才能に恵まれず、親や周囲のサポートも得づらかった人が自己責任として自分の境遇を受け入れてしまう事です。

それが資本主義における前提と言ってしまえばそれまでなのですが、マイケル・サンデル先生をして何処まで本気なのかわかりませんが、(ある一定の学力があれば)入学する大学をくじ引きにすればよいなどと提案するというような、非現実的な提案をされてしまうくらいですから、資本主義社会下におけるメリトクラシーの強固さは社会の構成の隅々に行き届いているので、これを変革していくのはほぼ不可能に思えます。

〈そんな中でのコロナ禍〉
新型コロナウイルス感染症の恐ろしいところは、社会システムの弱さを明らかにしてしまう所です。日本だとセフティーネットの脆弱さがそのひとつだと思うのですが、小田急線ジョーカー事件や大阪のビル放火も社会的弱者が社会そのもの対して恨みを強く抱いた事による犯罪だと思います。

これらの殺人事件とは、人と人、人や組織とのコンフリクトが発生する中で、大体の人は不満がありながらもなんとなくバランスを取りながら社会を構成していくものですが、その歪が大きくなり、不満が吸収できなくなってしまう中で最悪の形で犯罪として噴出してしまう事案であると理解しています。

言い方は正しくないかもしれませんが、今の日本はセフティーネットが貧弱さの代償をしばしば発生してしまう無差別殺人事件としてそのコストを引き受けてしまっている社会構造になってしまっているのではないかと思います。

拡大自殺とも言われるこれらの事件ですが、如何ともし難いのが犯罪者になってしまう社会的弱者が社会そのものに恨みを抱いてしまっているため、攻撃対象が日常そのものとなってしまう点です。

このような事件の発生が多発していますが、社会的弱者を救済するというような機運はあまり高まっていないように感じます。

〈ではどうすればいいのか〉
今の社会を構成している基本ルールとしてのメリトクラシーは否定されなければならないと思っています。(現代社会において)能力が高い人はその能力を社会に還元する責務があり、能力が高くない人は、人間としての尊厳を奪われる事はないような世間一般的な認識の醸成が必要だと思っています。