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さぷログ

メーカーの人事部門で働いています。

【書評】『三びきのやぎのがらがらどん』は父親殺しの予行演習

最近5歳の次男に『三匹のやぎのがらがらどん』をせがまれて読み聞かせする事が多いのですが、この本を読むたびに父親としては恐ろしい気持ちになります。ネットではあまりそのような意見は見かけないので、この事について書いてみます。

はじめに結論から言いますと『三匹のやぎのがらがらどん』は父親殺しの物語に他ならないという事です。父親殺しが物騒な表現だとすると、子供が思春期なって今まで強くて、物知りで、恐いけど頼もしいと思っていた父親が実は普通の男性で、その子なりのやり方で父親を超えて大人に成長していく通過儀礼を暗喩したお話と言う風に理解しています。

さて、子供が父親を乗り越えるための通過儀礼の比喩という視点で『三匹のやぎのがらがらどん』を見ていきます。

まず、本のタイトルにもなっている「がらがらどん」という名前はなぜか三匹とも同じ名前な訳ですが、これは一人の子供の大人への成長を暗喩しているからに他なりません。

つまり、三匹のやぎが同時に存在するのではなく、一匹の小やぎが中くらい成長し、そしてトロルを倒せるくらい大きく成長する事を意味しているという事です。

よって本の何処を見ても三匹は兄弟であるという表現は出てこないわけです。(もちろん、お話の中では同じ時系列に三匹いるので、そこは意図的な混同をしているわけですが)

また、トロルは父親の暗喩、吊橋は乗り越えなければならない試練、吊橋を越えた先の草のご馳走は成長をそれぞれ意味しています。

え、ではトロルがやぎのお父さんなの?という疑問が湧くわけですが、トロルは基本的に自分の橋を守っているだけです。これは父親としての権威を守っているという事のメタファーではないかと考えています。ですので三匹のやぎのがらがらどんの基本構成とは、父親の権威に対する子供からの挑戦という構図であるのではないかという事です。

注目したいのが小さながらがらどんと、中くらいのがらがらどんが橋を渡る時にトロルをやり過ごす方法です。「もっと大きいやぎがくるから、見逃して」と知恵を使ってやり過ごす訳です。父親には力では勝てないから、知恵を使えと。これは子供にとってはかなり難しいですが、基本的に親の保護下に置かれている以上、確かに賢い手段はこれしかない気がします。

そしてクライマックスとして最後に大きながらがらどんがトロルを木っ端微塵にするわけですが、もはや知恵を使わずとも父親に勝てるという残酷な事実を暗示しています。

僕はここを読むときいつも心の中で苦笑してますが、一方次男はここにカタルシスを覚えていることでしょう。

そして無事山に行き、美味しい草をいっぱい食べてめでたしめでたしという訳です。

次男に「どういうところが面白いの?」と聞いても「うーん、わからない」と言いながら、次の日も読んでとせがんできます。

おそらく子供達はこうやって来る日の通過儀礼を乗り越える予行演習を親にあまり気付かれる事なく進めているのだと思います。父親殺しと書きましたが、一方で子供達はお父さんの事を基本的には大好きなので、その子なりの乗り越え方で大人になっていくと思うのです。

長年愛されている童話はこのように普遍的で根源的な人間の成長に欠かせないことが、自然と学べるようなお話になっていると思います。

子供達は大人のような常識や社会的規範は徐々に身につけつつある段階ですから、ある意味半分はまだ根源的で、暴力的で、神話的な世界の住人です。残酷なもの、大人の感覚では理解し難いものに興味を示すのは子供達の特権です。

『三匹のやぎのがらがらどん』に子供が惹かれ、大人は理解に苦しむというのはそういうことなのだと僕は理解しています。

以上、ノーエビデンスで書いたので、(海外含めて探せば似たようなエントリーがあるかもしれませんが)信じるか、信じないかは皆様の判断にお任せしますが、僕はきっとこうなんだろうなと信じています。

【追記】
この本の終わり方についてご指摘頂きました。最後は「ちょきん、ぱちん、すとん、はなしはおしまい」という唐突な終わり方なのですが、これは童話の世界から子供を現実に戻すための重要な役割を担っているそうです。

ちなみに英語訳はSnip, snap, snout. This tale's told out.だそうで、かなり訳が工夫されているんですね。ありがとうございました。

終わり方の意味がよく分かってなかったのでとても勉強になりました。確かに父親殺しの脳内シミュレーションをしてたとしたら、そのままだとおっかないわけですし。

【追記2】
小さいがらがらどんと中くらいのがらがらどんが知恵を使ってトロルをやり過ごす部分のやりとりですが、もしかすると旧約聖書の影響があるかもしれません。出エジプトダビデゴリアテのエピソードは弱者に勇気を与える物語であり、弱者にとっての知恵を用いた欺きは、機転を利かさなければ勝てない場合での当然の手段として正当化されました。それは神の意志でもあった訳です。私を含めて日本人にはなかなか理解が難しいですが、聖書の知識があればまた違った見方になるかもしれませんね。