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さぷログ

メーカーの人事部門で働いています。

日本人は反知性主義にはならないと思う理由

さぷさんです。知的なブログを目指しています。

さて、最近日本学術会議の任命問題もあって、新聞記事などでこれは反知性主義ではないのかと書かれているのを目にする事があるのですが、本来的な意味から言って、日本人は反知性主義にはなり得ないと思うのでその事について書いてみたいと思います。

反知性主義の事を誤解を承知の上で一言で言い表すと以下の通りになると思っています。

「私は正しいと信ずるから正しい」

トートロジー全開で何を言ってるかわからない方もいらっしゃると思いますが、ちょっと僕の話を聞いてください。

まず、反知性主義が生まれたのはアメリカです。

そしてその新天地アメリカに上陸したのは、メイフラワー号でプリマスに上陸したピルグリム・ファーザーズです。

ピルグリム・ファーザーズとは、信仰の自由を求めたピューリタンで、カルヴァン派プロテスタントです。

カルヴァンと言えば予定説です。神以外人間を救うことが出来ないとし、聖書の教えを守る事を重視し、教会の既得権益を否定しました。

つまり、このような歴史的背景を持った人々がアメリカでいわゆるキリスト教福音派と呼ばれている人達に受け継がれています。

ですのでキリスト教福音派は聖書の教えを絶対視し、進化論を否定してインテリジェントデザイン信じて地球の歴史は長くても7000年くらいしかないと本気で思っていたり、人工妊娠中絶に反対したりします。

そしてキリスト教福音派として大切なのが回心経験で、上手く表現できないのですが、神の啓示を受ける劇的な個人体験を重視しています。

この回心体験とアメリカ流自己啓発のつながりが大変興味深いのですが、それは別の機会に譲るとして、つまりどういう事かと言いますと、神を絶対的な基準として、ゆらぎない信仰を獲得する事が大切で、古くからの既得権益を疑いの目で見るというのが僕の反知性主義の理解です。this is meって感じですね。

一方で日本人というのは他者との関係性において自らが位置づけられるという特徴を持ちます。

一人称を考えたとき、僕の場合は、ブログでは僕、会社では私、子供たちの前ではお父さん、友達といる時は俺、など状況に応じて主語が変わります。英語はIのみですから、どえらい違いです。

つまり、大多数の日本人が何か絶対的なものを基準においているかと言われたらおそらくそのようなものはほとんどなくて、常に他者との相対的な位置関係の中で流動的な私がいるという構図です。

絶対的な拠り所があるとすれば天皇陛下を頂いているという事はあるかもしれませんが、戦争中の一時期を除いては強烈な信仰という事ではないと思います。

よってアメリカにおける反知性主義とは、揺るぎない信仰と既得権益への疑いの目がセットであるにも関わらず、日本では後者のみを指しており、反知性主義という言葉から連想される不勉強な反インテリみたいな文脈で言葉の強烈さのイメージだけで記事にしているように感じています。

そのような記事は信用ならないなーと思いながら読むようにしています。

ちなみに僕が反知性主義関連で読んだ本は以下の通りです。

森本あんりさんの反知性主義は面白かったです。ファンタジーランドは上が個人的にはよかっですね。

反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体―(新潮選書)

ファンタジーランド(上): 狂気と幻想のアメリカ500年史

ファンタジーランド(下): 狂気と幻想のアメリカ500年史