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さぷログ

メーカーの人事部門で働いています。

庵野秀明がシン・エヴァンゲリオンでやりたかったのは緻密なJAZZなのか

『これまでのヱヴァンゲリヲン新劇場版』+『シン・エヴァンゲリオン劇場版 冒頭12分10秒10コマ』

さぷさんです。僕がシン・エヴァンゲリオンを見たのは公開から1週間後の週末でした。朝の早い回にも関わらずほぼ満員で、上映後に拍手というのはなかったのですが、映画館内がしばらくはシーンとしていた気がします。

さて、公開から一ヶ月以上経った中で、今更な感じもしないでもないですが、シン・エヴァンゲリオンの感想を書いていきたいと思います。

〈緻密なJAZZ〉
庵野さん自身も「iPhoneで撮ってくる」と外に出て「今から送るから」といってすぐに素材を編集に反映させるということが多々ありました」https://blog.adobe.com/jp/publish/2021/03/22/cc-video-premierepro-interview-evangelion.html#gs.ywjtpb

シン・エヴァンゲリオンAdobeの編集ツールをフル活用して作られたというブログエントリーがちょっと前に話題になりました。

数万点という素材を管理していたそうなのですが、例えばエンドロールでヴァーチャルカメラマンという役割があるのを知って、なんだろうと思っていたら実際アクターに演技してもらった動画をあらゆるアングルで撮るという事でした。

上記のAdobeのブログでヴァーチャルカメラに言及があるのは以下の箇所です。

「ヴァーチャルカメラでは、何百アングルというものすごい数を撮ります。そして、似たようなアングルで仕分けしたグループでマルチカメラシーケンスを作って、庵野さんはその一覧をサムネイルとして俯瞰し、どの構図が良いかを選ぶのです」

ここまでアングルに凝る理由は、これまた話題になったNHKのプロフェッショナルでの庵野秀明への密着の中で、庵野秀明自身が「普通にやったら普通のカット割にしかならない」でしたり「肥大化した自己へのアンチテーゼ」という言葉で語っていました。

アニメで特徴的なのは、書きたいものしか映像の中に現れないという点にあります。

以前、ファイナルファンタジーの作曲を担当していた植松伸夫のインタビューの中で「慣れた楽器で作曲をしていると、手が慣れたコードを弾いてしまうので、あえて得意ではない楽器で作曲をすることがある」という記事を読んだことがあります。

アニメもディズニー、東映手塚治虫宮崎駿などが確立した表現手法があり、庵野秀明自身も慣れたアングルや表現手法があるでしょうから、そういう過去の作品のコピーになってしまわないよう、絵コンテは書かずにプライベートビルト版のAdobe Premiere Proで、Adobe社のバックアップを受けて、徹底的にアングルにこだわった映画にしたのではないかと思います。

また、冒頭に書いた「iPhoneで撮ってくる」というのは、今のアングルに納得いかないから別な素材を使うという事になる訳で、完全にスタッフ泣かせだと思いますが、NHKのプロフェッショナルでカラーのスタッフの方が言っていたとおり、「作品ってそういうものでしょ」という事になるのかもしれませんが、締め切り間際だったりしたら生きた心地がしないような気もします。

緻密なJAZZとは言語矛盾な気がしますが、庵野秀明がやりたいことはそういう事なのかもしれません。


〈マリ=安野モヨコ説への反論〉
マリエンドになった事で、ネット界隈ではマリ=安野モヨコでファイナルアンサーになっているように思いますが、僕はちょっと違った意見なのでその事について書いてみたいと思います。

マリは確か昭和歌謡が好きなオヤジキャラという設定があったように思うのですが、安野モヨコの「監督不行届」を読むと、庵野秀明はアニソンが好きな昭和親父として描かれています。

「シンジ君って昔の庵野さんなんですかって聞かれるんですが、違うんですよ。シンジ君は今の僕です(笑)」

エヴァのキャラクターは全員、僕という人格を中心に出来ている合成人格なんですけど、(中略)平たく言えば僕個人があのフィルムに投影されているってことですね」

上のコメントは「庵野秀明 スキゾ・エヴァンゲリオン」の中にある庵野秀明自身の言葉ですが、僕はマリも庵野秀明の人格の一部だと思っています。

精神分裂病という言葉が統合失調症に置き換わったのは2002年なのだそうですが、この本のタイトルにも使われているスキゾフレニアとは、テレビ版のエヴァンゲリオンと旧エヴァの時代までは精神分裂病という名称であったと言う事になります。

エヴァンゲリオンの全人物が庵野秀明の分身だとして、これは僕の推測ですが、エヴァのキャラクターは統合失調症の症状のひとつである解離性同一性障害(多重人格という言葉の方がわかりやすいと思いますが)として表現されていると思っています。

そして、解離性同一性障害の治療の過程で複数の人格を統合する際に現れるとされている統合人格として現れたのがマリではないかと思っています。(ちなみに庵野秀明自身が解離性同一性障害ということではなく、アニメのキャラクター造形において、解離性同一性障害の構造を用いたのではないかという仮説です)

ですので、精神的に成長した状態のマリは前向きでネアカなキャラクターですが、安野モヨコの影響はあるかもしれないものの、マリもやはり庵野秀明自身であり、あのラストは周囲の力を借りつつも自分で自分を開放したという見方を僕はしています。(少数派意見だと思いますが)


〈自己嫌悪日本代表からの引退〉
NHKのプロフェッショナルを見ていたら、庵野秀明は肉と魚はやはり食べないようでしたが、庵野秀明が肉と魚を食べない理由は、自分が嫌いすぎて、同族嫌悪としての魚肉拒否ではないかと思っています。

「人間以前に、生物嫌いですね。動物も好きじゃないです。僕が肉や魚を食わないのも、たぶん、嫌いなんですね。そんな気持ち悪いもの食えるか、と思うんですけどね。」(庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン

という発言があるように、自己嫌悪日本代表のような庵野秀明ですので、自分の全てを作品にぶつけているエヴァンゲリオンにおいて、ファンは自分や近しい人の自己嫌悪を何処かに見つけ出す事が出来るのだと思います。

しかし、シン・エヴァンゲリオンでは、ついに自己嫌悪からも見事に卒業されました。

シン・エヴァンゲリオンを酷評している人で、庵野秀明の安易な物語には回収されないと怨嗟の念を撒き散らしたエントリーもたまに間違って見てしまう事があるのですが、だいたいそういう方は他のエントリーでも怨嗟にまみれた文章を書かれていたりするので、その方の幸せを祈って静かにブラウザバックする訳ですが、シン・エヴァンゲリオンは見る人の内腑をえぐり出す恐ろしい映画であるとも言えると思います。


〈シン・エヴァンゲリオンから考える生産性向上〉
シン・エヴァンゲリオン興行収入は公開35日で約74億円で、シン・ゴジラに迫っているようですから、大ヒットであると言えると思います。

製作の佳境でアングルが気に入らず、iPhoneで写真を撮りにいってしまったとしても、確かにその部分を切れとれば生産性の低い行動ですが、逆に「作品づくりに満足することはない。締切があるだけ」と言い切ってしまう程に作品づくりに入れ込み、ディテールに拘りまくるからこそ、これだけの興行収入が叩き出せる訳であって、あらためて生産性とはインプットに対するリターンなのだと思いました。

また、前作から9年空いたとしても、その間も会社を維持するために、エヴァンゲリオンの版権をカラーが抑えているのはMBAの教科書的にもお手本で、キャッシュカウをうまく使いながら、次の作品のクオリティを高めるという事が出来ていると思います。


〈思考の補助線としての宮崎駿
「宮崎さん自身、連載終了直後のインタビューで、『こういうふうにしたい、じゃなくて、こうなっちゃう』『ものを作る主体というより、ただ後ろからくっついていっただけ』と話しています。宮崎さんの巨大な無意識が充満しているのが最大の魅力です。近年のエンターテインメントで主流の、心地よい予定調和の物語だったら、すぐに古びてしまったでしょう」

上記は朝日新聞に掲載されていた漫画版ナウシカの批評の一部ですが、庵野秀明宮崎駿はやはり似ていると言いますか、シン・エヴァンゲリオンにも当てはまるのではないかと思います。

庵野秀明は「作品か命かといったら間違いなく作品」と言い切ってしまっていましたが、全てが計算ずくではなく、よく分からないけどこのシーンが絶対に必要というような部分もあったのではないかと思います。

作品に満足することなく、あるのは締切だけだそうですが、エンターテインメントの傑作は命を削りながら作られていると思うと、やはり庵野秀明の考えを理解の出来なくて当然かなという気がします。もちろんそれは師匠の宮崎駿鈴木敏夫も同様で、一般人の理解の範疇を超えている訳ですが。

〈ゲンドウの自分語り〉
ゲンドウの自分語りについて、ネットでは長いとかしらけたとか書かれていましたが、僕は良かったなと思っています。

自分の弱さを正直に伝えることは勇気が必要で、一人の女性のために人類を犠牲にしようとしたのはどうかと思いながらも、いいシーンだなと感じていました。

それはおそらく僕の父親が、ゲンドウに似ているとは言いませんが、かなり強圧的な部分があって、自分の非を認めない裏に弱さが見えるタイプですので、重ねて見ていた部分があると思います。

そして、シンジとゲンドウは対話していきますが、僕は父親と腹を割った話は出来ていないので多分羨ましいのだと思います。

このように僕はゲンドウのシーンが記憶に残りましたが、人によってそのシーンは様々だと思います。

シン・エヴァンゲリオンは2時間半の中でストーリーの密度がとても濃いので、人によって刺さる部分が全くもって異なるという稀有な映画だと思います。


〈結局、みんな、自分を語っているのか〉
ブログなどのシン・エヴァンゲリオンの感想を読んでいて面白かったのは、みなさん自己紹介と言いますか、エヴァとどのように知り合って、どういう遍歴があって、シン・エヴァンゲリオンを見る前はどう言う心境でというのを丁寧に書かれている方が多かったなという点です。(エヴァQの時はどうだったかは分かりませんが。。)

おそらく、シン・エヴァンゲリオンがいろんなものを丁寧に終わらせていった中で総括しなければならないという気持ちが自分のエヴァ歴の振り返りになるのだと思います。

人がある作品に入れ込むのは、やはりそこに自分を投影してしまうかならなのだと思います。

ですので、私達はエヴァンゲリオンを考察しているつもりで、実は自分について語っているという部分が少なからずあるのではないかと思います。

ということは、私達は庵野秀明の中に自分を見出しているという事に他ならないという事になるのだと思います。

まさか、ファンの自己嫌悪や不安感とちょっとした希望をまたすぐ絶望に落として、最後に救済しようなんてこれっぽっちも考えてはなかったと思いますが、結果的に庵野秀明はそれをやってしまった訳で、死海文書恐るべしと思いました。

こちらからは以上です。