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さぷログ

メーカーの人事部門で働いています。

雑記20220111

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さぷさんです。久しぶりのエントリーです。

〈萌えイラストが上手くなった(自分比)〉
年末年始はどこも行かずに暇だったので、スマホで萌えイラストを描いてました。デジ絵歴は1年ちょいなのですが、おそらくこの1年で400〜500時間くらいデジ絵に費やしています。

もうSNSはやらないと宣言したんですが、絵を描いたら公開したくなるのが人情でして、それなりにいいねをもらえる中で、自己承認欲求を満たしていたりします。

ちなみにこの絵はホロライブ4期生の常闇トワ様とラプラス・ダークネス様ですが、割と尊さを表現できたかなと思いつつ、44歳のおっさんが何をしているんだ自分はという気がしなくもありません。

〈やる気になればタダでいろいろ出来る恐ろしい時代〉
僕のデジ絵は完全に独学ですが、お絵描きツールをスマホに入れて、さいとうなおき先生のYouTubeの動画を見て勉強しつつ、構図はPinterestで探すという手法で絵を描いています。

優良なアプリやYouTubeなどの動画のお陰で良いツールと情報に対して格段にリーチしやすくなっており、やるかやらないかは本人のやる気次第でありますから、言い訳が出来ないというある意味おそろしい時代を我々は生きています。

〈でも本当にそうなのか〉
ただ、僕がデジ絵で出来たことを英語学習に転用することができるかと言いますと俄然怪しくなります。

英語のアプリをいくつかスマホに突っ込んで、YouTubeでビジネス英語の動画をひたすら見ればいいという理屈になりますが、全く出来る気がしません。

AIも同様で、パソコンにPythonをインストールして、GitHubでコードを見ながらプログラミングをすれば、元コボラーの僕でも最先端のIT人材になれるはずなのですが、その気配はありません。一体全体なぜなんでしょうか。


〈おそらくは〉
僕は幼少期から絵を描くのが好きで、基本的には何時間絵を描いてても苦ではないですし、小学校の時にはクラスでコンクールに出す絵に選ばれたこともありました。

僕にとって絵を描くことはそもそも好きなことですし、好きでやっているので努力しているという感覚もあまりありません。

おそらく、対象物は違えど英語なりプログラミングなりが大好きで、本人は努力しているという感覚はなく、好きだからやっているし、なんか周りもすごいと褒めてくれるのでさらに頑張れるという人が世の中にはいるのだと想像します。

僕は、超絶技巧絵師には敵うとは思いませんが、上に描いた方法を試したらそれなりの絵が誰でも描けるんじゃないかと思ったしています。

でもこれは多分僕が英語やプログラミングがさっぱり出来る気がしないのと同様で、同じメソッドを試しても出来る人とそうでない人がいるのだと思います。これはおそらく勉強、スポーツ、趣味などあらゆる分野に当てはまります。

〈努力は無駄なのか〉
そうすると努力は無駄なのかという絶望的な気持ちになりかけますが、努力は無駄ではありません。

ただ、同じ分野で努力しているという自覚なしに楽しんで対象分野に取り組んでいて、しかも元々才能がある人がライバルにいたりする訳です。このような人達に勝てるわけがありません。

〈では自分の得意分野は何なのか〉
仮に僕が若い頃からイラストに全リソースを割いたとしても、それで食べていけかたかと思うと、イラストを描きたい人は山程いる中で、成功した可能性は低いと思います。

僕は絵が好きですが、二人の息子たちには遺伝しなかったようなのです。

生まれもった才能や特性というものが現代社会で稼ぐ能力として発揮できる人はごく一部なのではないかと思います。

自分の得意分野を職業にする事が出来ればそれは幸せな事ですが、そうではない人が大半だとすると、神様はなかなか残酷な事をしてくれたなと思わざるを得ません。

〈という上記の考えはメリトクラシーに絡め取られている〉
マイケル・サンデル先生の本などを読んでいると、最近はメリトクラシー批判が少しずつ出てきていると思います。

メリトクラシーの問題は大きくは2つあって、元々恵まれた才能をもち、良い環境で親や周囲の手厚いサポートがあって社会的に成功している人が、その成功を自分の努力で成し遂げたと思い込みやすいことにある事と、元々才能に恵まれず、親や周囲のサポートも得づらかった人が自己責任として自分の境遇を受け入れてしまう事です。

それが資本主義における前提と言ってしまえばそれまでなのですが、マイケル・サンデル先生をして何処まで本気なのかわかりませんが、(ある一定の学力があれば)入学する大学をくじ引きにすればよいなどと提案するというような、非現実的な提案をされてしまうくらいですから、資本主義社会下におけるメリトクラシーの強固さは社会の構成の隅々に行き届いているので、これを変革していくのはほぼ不可能に思えます。

〈そんな中でのコロナ禍〉
新型コロナウイルス感染症の恐ろしいところは、社会システムの弱さを明らかにしてしまう所です。日本だとセフティーネットの脆弱さがそのひとつだと思うのですが、小田急線ジョーカー事件や大阪のビル放火も社会的弱者が社会そのもの対して恨みを強く抱いた事による犯罪だと思います。

これらの殺人事件とは、人と人、人や組織とのコンフリクトが発生する中で、大体の人は不満がありながらもなんとなくバランスを取りながら社会を構成していくものですが、その歪が大きくなり、不満が吸収できなくなってしまう中で最悪の形で犯罪として噴出してしまう事案であると理解しています。

言い方は正しくないかもしれませんが、今の日本はセフティーネットが貧弱さの代償をしばしば発生してしまう無差別殺人事件としてそのコストを引き受けてしまっている社会構造になってしまっているのではないかと思います。

拡大自殺とも言われるこれらの事件ですが、如何ともし難いのが犯罪者になってしまう社会的弱者が社会そのものに恨みを抱いてしまっているため、攻撃対象が日常そのものとなってしまう点です。

このような事件の発生が多発していますが、社会的弱者を救済するというような機運はあまり高まっていないように感じます。

〈ではどうすればいいのか〉
今の社会を構成している基本ルールとしてのメリトクラシーは否定されなければならないと思っています。(現代社会において)能力が高い人はその能力を社会に還元する責務があり、能力が高くない人は、人間としての尊厳を奪われる事はないような世間一般的な認識の醸成が必要だと思っています。