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さぷログ

メーカーの人事部門で働いています。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』を見て思ったコト

さぷさんです。SNSは良くも悪くも(だいたい悪いことの方が多い)増幅装置ですから、心身の調子がイマイチな時は見ないし書き込まないようにしています。

さて、昨日の夜にNHKBSプレミアムで『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』が放送されていまして、ついつい最後まで見てしまいました。寝不足です。

僕はエヴァを大学生の時に再放送のTV版で見て、ラスト2話で当時「は?」となって、映画館には特に足を運ばないようなありがちなタイプになります。

僕のあまり多くはないエヴァ体験の中で、昨日『破』を見て、今までにはない感情が生じたので、その事についてちょっと書いてみます。

コアなファンの方に怒られそうですが、エヴァからエロスとグロテスクな要素とオカルト的要素(陰謀論的な所)を取り除くと比較的シンプルにな構造として見る事が出来ると思います。

乗り越えるべき試練の到来(使徒襲来) → なんとか退ける → 日常の回帰 → 乗り越えるべき次の試練の到来(使徒襲来) → またまたなんとか退ける → 日常の回帰 → さらに乗り越えるべき次の試練が到来(以下略)という構成です。

これは主人公の碇シンジ綾波レイ、アスカ達チルドレンが14歳である事から考えても、思春期の少年少女の成長についての物語であるという事はいろいろな人も指摘してると思うのですが、こういう普遍的な要素があるので多くの人が虜になるアニメなのだと思います。

僕は陸上部出身なのですが、サハクイエル戦でクラウチングスタートをする所とか、全力疾走中に電線をハードルジャンプで超えるところとか、動きが陸上選手のそれをかなり忠実に再現しているように見えて、部活の事を思い出しました。あまり強くはなかったのですが、何かに打ち込んだいい思い出です。

また、日常の風景もマニアックなまでに描きこまれていて、登下校とか、学校でのお弁当とか、帰り道の駄菓子屋での買い食いとか、自分の体験とシンクロさせるような描写のシーンがかなりあります。

そんな中で、「あ、思春期の時はこんな感じだった」という感覚を思い出したんですよね。

僕の思春期は基本的に自己承認欲求と女の子の事しか頭にないですから(あ、今もか)、部活とか体育祭でとにかく目立ちたかった訳です。

とにかく自意識の塊だったのと、時間は無限にあるという感覚をとっくの昔に忘れていた訳ですが、それをちょっと思い出しました。

今は自分の身の程を知ったので、自己承認欲求はありながらも抑えつつ、人生の折返し地点なので、出来る事とやりたい事を取捨選択しつつ、社会的責任や家族に対する責任を取っていくべきだよなという、何者にもなれなかった自分をようやく受け入れ、それなりに大人の振る舞いを身に着けた訳ですが、「ああ、中学生の頃はそんな感覚だった。忘れていた事すら忘れていた。時間は無限にあり、何者かになりたいと強く欲していたなあ」という事をエヴァを見てて思ったのは初めてでした。

今まさに長男が思春期に突入しつつあり、彼の感覚として持っているだろうものを思い出すことが出来てよかったです。

自意識と女の子にモテたいというのを肯定しつつ、つかず離れずで息子たちと接していきたいなと思います。

碇ゲンドウエヴァの中では基本的に抑圧的な人物として描かれていて、それはTV版当時の上の世代に対して持っていた感情なのだと思いますが、『破』では少し優しくなったイメージで、庵野監督も同じような立場になった中での心境の変化なのかもしれないと思いました。

『Q』はネットを見る限り鬱展開みたいですが、『破』は難題を乗り越えるという側面を書いたので、そうは上手くいかないよと言う事を言いたかったのかもしれません。

『序』でエヴァのエピソードを最新のアニメ技術で描いて、『破』で思春期における困難の乗り越え方を描いて、『Q』で結局何者にもなれないという挫折を描いていたとしたら、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』では一体何を書くのかなというのは興味深いです。

エヴァでは「個人の救済」と「人類全体の救済」の両方のストーリーをリンクさせながら進めていて、TV版では前者に思いっきり振って多くのファンを「?」にさせましたが、ある特定の組織が強大な力を使って世界を救済するというのは、ソビエトなどの社会主義国家が壮大な実験をして壮大な失敗をしていますから、物語を着地させるのは難しいのではないかと思いました。

それか、ラストで碇シンジ碇ゲンドウと同じ位の年齢になっていて、まだ使徒との戦いが続いている中で自分の息子であるエヴァパイロットには優しく接しているというのであれば、親目線としては納得出来るかもしれないなと思いました。