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さぷログ

メーカーの人事部門で働いています。

エヴァQ「渚カヲル=宮崎駿」説(考察)

庵野(秀明)の悲劇は、自分がコピーのコピーのコピーだってことを自覚していることなんです、ほんとに。(中略)もうほんとにダメだって言ってるんですよ」(宮崎駿 映画雑誌「Cut 2013年9月号」)


先日「エヴァンゲリオン新劇場版:Q」を初めて見たんですが、大方のネットの感想同様「よくわからないな」というのが正直な感想でした。ですのでこれは庵野秀明の精神世界を理解することが必要なのではないかと感じた次第でして、そのことについてのエントリーとなります。

幸い在宅勤務で時間がありあまっていますので庵野に関する書籍をKindleでいろいろ漁ってみたところ、宮崎駿に比べて極端に少ない事が分かりました。エヴァ謎本が一時期大ブームになりましたが、興味が庵野秀明本人に向かわずにストーリーに向かってしまうという事なのだろうと思っています。

そこで「スキゾ・エヴァンゲリオン」、「パラノ・エヴァンゲリオン」、安野モヨコの「監督不行届」、乖離症の本を1冊、オウム真理教の本を1冊を立て続けに読みまして、あとはYou Tube岡田斗司夫エヴァ考察の動画を全て視聴したのと、これまた庵野秀明のインタビューを可能な限り全て見てみました。

結論から言いますと「スキゾエヴァンゲリオン」、「パラノエヴァンゲリオン」には庵野秀明の幼少期から旧劇場版作成までの本人インタビューとガイナックスの主要メンバーの対談(本人抜き)がありましたので、この2冊を読んでおけば十分ではないかなと思います。

ちなみにあの岡田斗司夫が「エヴァはわからない」と謎解きに匙を投げておりますので、ストーリーを忠実に追うということを岡田斗司夫ですらできないという事は、世界中の誰もが出来ないと言う事になると思った次第です。

また、エヴァの考察動画でとても良く出来たものもありますが、言っている事がみなさんそれぞれバラバラでして、語られない部分を想像しつつ考察しているように見受けられる中で、やはりエヴァ岡田斗司夫が言うようにストーリーの厳密さは最初から考慮しておらず、カッコいいシーンを作ってつなげているというのが真実の一つとしては近いものであると理解しています。

さて、冒頭の宮崎駿の言葉「庵野(秀明)の悲劇は、自分がコピーのコピーのコピーだってことを自覚している」と言う事はどういう事なのか、なぜ僕が「渚カヲル宮崎駿」説を思いついたのか、宮崎駿を補助線として庵野秀明の精神世界に迫ってみたいと思います。

まずは庵野秀明の生い立ちを正確に記す必要があります。庵野秀明はカラーテレビ本放送が開始され、戦争の傷も癒えつつある1960年に山口県宇部市に生を受けました。

生い立ちはパラノ・エヴァンゲリオンにやや詳しく書いてあります。家族に関する記述は少なめなのですが、両親と妹の核家族であったのではないかと思われます。(祖父母に関する記載は一切ないため。あくまで推測ですが)

父親は高度成長期の企業戦士で、ほとんど家にいなかった会社人間であったそうです。また戦時中に事故で足を切断しており、庵野秀明は奇形に対する愛着があると証言しています。凄惨なシーンが繰り返し描写される原点はここにあるというわけですね。

母親への言及は少ないのですが、あまりエピソードとして書くような内容がないという事なのかもしれません。

山口県宇部市は田舎の保守的な土地柄で、意外ですが(失礼)庵野秀明は学級委員を務めるような優等生タイプだったそうです。

貧乏だったという事なのですが、友達もそれなりにいて、庵野の幼少期には強烈で特別なエピソードは皆無であると言えるのではないかと思います。ただ、高校生になってお小遣い月5000円だったそうですから、言葉をそのまま受け取れない気もしますが、主観的には貧乏という事なのかもしれません。

また、当然庵野はアニメや特撮ヒーロー物には熱中しており、ウルトラマン宇宙戦艦ヤマトがお気に入りだったそうです。

では、一方で庵野秀明の師匠筋の1人である宮崎駿はどうでしょうか。宮崎駿は1941年1月に生を受けています。同12月に真珠湾攻撃が行われ、日本は泥沼の太平洋戦争に突入していく年ですね。

宮崎駿の父親と伯父は零戦の部品(風防)を組み立てる工場を経営しており、話は少しずれてしまいますが「風立ちぬ」の堀越二郎宮崎駿は浅からぬ因縁があるという事になりますね。

また、宮崎駿は比較的裕福な家に住んでいたので自宅に自家用車があったそうなのですが、空襲から車で逃げる際に、親が近隣に住む母子を見捨てた(但し兄の証言は異なる)強烈な体験による罪悪感は、長い間宮崎駿を苦しめる事になります。(この辺の情報はスーザン・ネイピア氏のミヤザキワールドに詳しく書かれています)

ですので、未来少年コナンナウシカ天空の城ラピュタの廃墟のイメージ、「生きろ」「生きねば」などのキャッチコピーはおそらく宮崎駿の原体験から生じているものでありまして、いくらご本人が否定されたで、自己を回復する為に作品を生み出してる側面は否定できないと思います。

宮崎アニメのあらゆるキャラクターや物語が宮崎本人のトラウマの昇華と戦争という悲劇の鎮魂への祈りであるとしたら、庵野秀明は一体はどういう事になるのでしょうか。

繰り返しになりますが、庵野秀明は戦争からある程度復興し、カラーテレビの本放送が開始された年に生まれました。テレビ時代の申し子です。

庵野秀明の人生は良くも悪くも宮崎のようなドラマチックな展開はなく、最も影響を受けたのが「ウルトラマン」や「宇宙戦艦ヤマト」であり、「機動戦士ガンダム」でした。

つまり、宮崎駿の言葉を用いるのならば「コピー」、庵野秀明の言葉で言うならば「パロディ」で成り立っているというのが当人が認識している庵野秀明その人です。

ある象徴的なエピソードが「スキゾ・エヴァンゲリオン」の中にあります。

「(スケジュールの都合で)外に出したら、それがちょっと不本意な仕事だった。それで再出しするにはお金がかかるけど、そのお金はないわけ。それで美監に頭を下げて「君が直してくれ」って頼むわけだけれども、「時間がないし、やってやれないよ」と美監が言うわけですよね。そうするとしばらく下向いてて、ブルブルブルッて全身が震え出す。で、いきなりその辺の本棚に、頭をガーン、ガーンとぶつけだして(笑)。涙ボロボロ流しながら「チクショーッ、チクショーッ」とか言い始めて。(中略)それで皆が徹夜で直すっていうような状態ですよ」

相当アレな行動に見えますが、一見突飛に見える行動にその人の本質が投影されると思っています。

作品への情熱などという言葉では足りないくらい、もっと具体的でドロドロとした情念の塊のような何かでです。

庵野秀明は自分がパロディにより構築されている事に対する強烈なトラウマを抱えており、リアリティに対するこだわりが狂気とも言えるレベルまで高まっているのではないでしょうか。

それは「じょうぶなタイヤ」や「王立宇宙軍オネアミスの翼」のロケット発射シーンなどを見てもよく分かります。

しかし、ここに庵野秀明が抱えている難しさがあるように思うのですが、自分の根本がパロディによって成り立っている中で、いくら精緻な表現や新たな要素を求めたとしてもアニメーションという庵野が登場する前に確立されたフォーマットや表現手法の中で、パロディの精緻化や表現の組み合わせの変更になるだけだというループにハマりこんでしまっているのではないかという事です。それを宮崎は「コピーのコピーのコピー」であると言ったのかもしれません。

そのために一時期庵野秀明は実写に挑戦したのではないかと思います。また、エヴァンゲリオンの新劇場版の映像の精緻さは庵野のパロディに対する自己嫌悪と怒りの産物であるので、その狂気と迫力がカラーに優秀なアニメーターを引き付ける原動力になっているのではないでしょうか。若手アニメーター曰く「カラーに入社して、エヴァをやりたい」という引力があるのではないかと思います。

私生活では安野モヨコと2002年にご結婚され、株式会社カラーを2006年に設立、2007年に「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」、2009年に「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」、そして2012年に「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」を公開されています。

おそらく、私生活の充実や会社経営を継続出来ているという確かな自信は庵野をポジティブな方向に少しづつ変えていったのではないかと予想できると思います。(但し、根本にあるトラウマが相当に強烈であるようなので、容易には解消できないと思いますが)

そしてここでようやく本題に入れるのですが、庵野秀明のパロディに対するトラウマは「エヴァQ」でようやく少し解消する事が出来たのではないかと推測しています。

碇シンジくんの首に巻かれたチョーカーが庵野秀明のパロディのトラウマを象徴していると仮定するとします。

「生きていく為には新しい事を始める変化も大切だ」という渚カヲルくんが碇シンジくんにピアノの練習を進める時のセリフですが、これは宮崎駿庵野秀明に投げかけた言葉だったのかもしれません。または庵野秀明が自分自身に必要だと感じている事かもしれませんが。

そして、碇シンジくんが庵野秀明だとして、最初は人差し指のみでぎこちなくピアノを弾いていたのが、渚カヲルくんのピアノの技術に数秒で追いつきます。

つまり、これは自分は宮崎駿の技能にすぐ追いつく事が出来るという自信をあの連弾のシーンでメタファーとして表現したのではないかという事です。

1997年に発売された「スキゾ・エヴァンゲリオン」の中で既に庵野秀明は既に宮崎駿の後継者を自認していますが、2012年時点では確信に変わっていたのではないでしょうか。そして2013年には「風立ちぬ」で堀越二郎の声を担当したことで、名実ともに宮崎の後継者となっています。

さて、話を「エヴァQ」の続きに戻します。エヴァ13号機でセントラルドグマ最深部に潜る前に碇シンジくんのチョーカーを渚カヲルくんが受け取ります。

よくネットで、一旦外したチョーカーをその場で捨てればいいのにと書かれていたりしますが、これは庵野秀明のトラウマであるパロディの呪いというのが正しければ、それを宮崎駿が引き受けるという仕掛けがどうしても必要であったという事になります。

呪いのチョーカーを引き継いだ時点で庵野秀明のトラウマの大部分は解消されていいかもしれないですが、この後の展開でトラウマを完全に消し去るにはまだ十分ではなかったという事がわかります。

そしてもう一つ、セントラルドグマリリスに刺さっているロンギヌスの槍。これも庵野秀明のトラウマのメタファーであると仮定します。

つまり、自身がパロディで成り立っているという恐怖や怒りが心の奥底に槍のように突き刺さっているという表現ではないのであろうかという理解ですね。

そして、ダブルエントリーシステムのエヴァ13号機でロンギヌスの槍を抜いた事でおそらく庵野秀明のパロディに対するトラウマが解消されると思いきや、よくわかりませんが何かが間違っており、渚カヲルくんは死んでしまいます。

これはストーリー上では不可抗力かもしれませんが、庵野秀明による宮崎の父親殺しをの決行であるとも言えるのではないかと思います。職業人としての父親くらいのインパクトがあると思われる宮崎の死という儀式を庵野秀明は必要としていたのかもしれません。(ゲド戦記の宮崎五郎と同じ構図ですね)

ただ、ここで終わらないのが庵野秀明の凄いところでして、渚カヲルくんの死(宮崎駿という父殺し)をもってしても、トラウマは解消されないという事です。

ですので、極上のエンターテイメントを装っていますが、あの映画は庵野秀明のプライベートフィルムという側面もあると思っています。我々が見せられているのは、庵野秀明の叫びそのものではなかったかという事です。

エヴァQはそういう映画だったのではないかと個人的には思っています。当たっているか外れているかは分かりませんけど。

そしてさらに、庵野秀明のトラウマはパロディだけにあるものではなくて、カシウスの槍に象徴されると思われるトラウマがあると思うんですよね。それは強烈な自己否定の感情だと思うのですが、次回作でそれをどのように解消するのか、それともしないのか、楽しみに待ちたいと思います。

「僕らは結局コラージュしか出来ないと思うんですよ。それは仕方ない。オリジナルが存在するとしたら、僕の人生しかない。僕の人生しか僕は持っていない」(庵野秀明 「スキゾ・エヴァンゲリオン」)