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さぷログ

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エヴァQ「渚カヲル=宮崎駿」説(考察)

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q

  • 発売日: 2019/12/01
  • メディア: Prime Video

庵野(秀明)の悲劇は、自分がコピーのコピーのコピーだってことを自覚していることなんです、ほんとに。(中略)もうほんとにダメだって言ってるんですよ」(宮崎駿 映画雑誌「Cut 2013年9月号」)


先日「エヴァンゲリオン新劇場版:Q」を初めて見たのだが、大方のネットの感想同様「よくわからないな」というのが正直な所感であって、これは庵野秀明の精神世界を理解しない事には始まらないと感じた。

幸い在宅勤務で時間があり、庵野に関する書籍をKindleで漁ってみたところ、宮崎駿に比べて極端に少ない事が分かった。

そこで「スキゾ・エヴァンゲリオン」、「パラノ・エヴァンゲリオン」、安野モヨコの「監督不行届」、乖離症の本を1冊、オウム真理教の本を1冊読み、You Tube岡田斗司夫エヴァ考察の動画を全て視聴し、また庵野のインタビューを可能な限り全て見た。

結論から言うと「スキゾエヴァンゲリオン」、「パラノエヴァンゲリオン」には庵野の幼少期から旧劇場版作成までの本人インタビューとガイナックスの主要メンバーの対談(本人抜き)があったので、この2冊を読んでおけば庵野の特異性を知るのに十分であった。

ちなみに岡田斗司夫が「エヴァはわからない」と謎解きに匙を投げていたので、ストーリーを忠実に追うということを岡田斗司夫ができないという事は、世界中の誰もが出来ないと言う事になると思った次第である。

エヴァの考察動画で良く出来たものもあるのだが、言っている事がみんなそれぞれバラバラで、語られない部分を想像しつつ考察しているように見受けられる中で、やはりエヴァ岡田斗司夫が言うようにストーリーの厳密さは最初から考慮しておらず、カッコいいシーンを作ってつなげているというのが真実の一つとしては近いものであると理解している。

さて、冒頭の宮崎の言葉である「庵野(秀明)の悲劇は、自分がコピーのコピーのコピーだってことを自覚している」と言う事はどういう事なのか、なぜ私が「渚カヲル宮崎駿」説を思いついたのか、宮崎を補助線として庵野の精神世界に迫ってみたいと思う。

まずは庵野の生い立ちを正確に記す必要がある。庵野はカラーテレビ本放送が開始され、戦争の傷も癒えつつある1960年に山口県宇部市に生を受けた。

生い立ちはパラノ・エヴァンゲリオンにやや詳しく書いてあるものの家族に関する記述は少なめであるが、両親と妹の核家族であったのではないかと思われる。(祖父母に関する記載は一切ないため。あくまで推測)

父親は高度成長期の企業戦士で、ほとんど家にいなかった会社人間だったという。また戦時中に事故で足を切断しており、庵野は奇形に対する愛着があると証言している。

母親は父親不在でやることがないから子供にエネルギーを注いでいたといい、そこから逃げたかったと語っているが、母親への言及は極端に少ない。

山口県宇部市は田舎の保守的な土地柄で、学級委員を務めるような優等生タイプだったという。

貧乏だったという事なのだが、友達もそれなりにいて、庵野の幼少期には強烈で特別なエピソードは皆無であると言える。

また、当然庵野はアニメや特撮ヒーロー物には熱中しており、ウルトラマン宇宙戦艦ヤマトがお気に入りであった。

さて、一方の宮崎駿はどうか。宮崎は1941年1月に生を受けている。同12月に真珠湾攻撃が行われ、日本は泥沼の太平洋戦争に突入していく年である。

宮崎の父親と伯父は零戦の部品(風防)を組み立てる工場を経営しており、話はすこしずれてしまうが「風立ちぬ」の堀越二郎と宮崎は浅からぬ因縁があるのである。

また、宮崎は比較的裕福な家に住んでいたので自宅に自家用車があったのだが、空襲から車で逃げる際に、親が近隣に住む母子を見捨てた(但し兄の証言は異なる)強烈な体験による罪悪感は、長い間宮崎駿を苦しめる事になる。

未来少年コナンナウシカ天空の城ラピュタの廃墟のイメージ、「生きろ」「生きねば」などのキャッチコピーは宮崎の原体験から生じているものであり、いくら宮崎が否定したところで、自己を回復する為に作品を生み出してる側面は否定できない。

宮崎アニメのあらゆるキャラクターや物語が宮崎本人のトラウマの昇華と戦争という悲劇の鎮魂への祈りであるとしたら、庵野はどうなるのか。

庵野は前述の通り戦争からある程度復興し、カラーテレビの本放送が開始された年に生まれた。

庵野の人生は宮崎のようなドラマチックな展開はなく、最も影響を受けたのが「ウルトラマン」や「宇宙戦艦ヤマト」であり、「機動戦士ガンダム」であった。

つまり、上記の宮崎の言葉を用いるのならば「コピー」、庵野の言葉で言うならば「パロディ」で成り立っているのが庵野秀明その人である。

象徴的なエピソードが「スキゾ・エヴァンゲリオン」の中にある。

「(スケジュールの都合で)外に出したら、それがちょっと不本意な仕事だった。それで再出しするにはお金がかかるけど、そのお金はないわけ。それで美監に頭を下げて「君が直してくれ」って頼むわけだけれども、「時間がないし、やってやれないよ」と美監が言うわけですよね。そうするとしばらく下向いてて、ブルブルブルッて全身が震え出す。で、いきなりその辺の本棚に、頭をガーン、ガーンとぶつけだして(笑)。涙ボロボロ流しながら「チクショーッ、チクショーッ」とか言い始めて。(中略)それで皆が徹夜で直すっていうような状態ですよ」

はっきり言って相当に異常な行動だと思えるのだが、人が冷静に見ておかしいと思う行動にその人の本質が投影される。

決して作品への情熱などという抽象的なものではなく、具体的でドロドロとした情念の塊のような何かである。

庵野は自分がパロディにより構築されている事に対する強烈なトラウマを抱えているため、リアリティに対するこだわりが狂気とも言えるレベルまで高まっている。

それは「じょうぶなタイヤ」や「王立宇宙軍オネアミスの翼」のロケット発射シーンなどを見てもよく分かる。あの作画には狂気が宿っている。

しかし、ここに庵野が抱えている難しさがあるのだが、自分の根本がパロディによって成り立っている中で、いくら精緻な表現を求めたとしてもアニメーションという庵野が登場する前に確立されたフォーマットや表現手法の中で、パロディの精緻化になるだけだというループにハマりこんでしまっているという構造を抱えてしまっており、それを宮崎は「コピーのコピーのコピー」であると喝破した。

そのために一時期庵野は実写に挑戦したのではないか。また、エヴァンゲリオンの新劇場版の映像の精緻さは庵野のパロディに対する自己嫌悪と怒りの産物であり、その迫力がカラーに優秀なアニメーターを引き付ける原動力になっている。若手アニメーター曰く「カラーに入社して、エヴァをやりたい」と。

私生活では安野モヨコと2002年に結婚し、株式会社カラーを2006年に設立、2007年に「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」、2009年に「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」、そして2012年に「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」を公開している。

おそらく、私生活の充実や会社経営を継続出来ているという確かな自信は庵野をポジティブな方向に少しづつ変えていったのではないかと予想できる。(但し、いい方向に向かっているだけで、トラウマが解消出来た訳ではない)

ここでようやく本題に入れるのだが、庵野のパロディに対するトラウマを「エヴァQ」でようやく断ち切る事が出来たのではないかと推測している。

碇シンジの首に巻かれたチョーカーが庵野のパロディのトラウマを象徴していると仮定する。

「生きていく為には新しい事を始める変化も大切だ」という渚カヲル碇シンジにピアノの練習を進める時のセリフ。これは宮崎が庵野に投げかけた言葉だったのではないかと推測する。

そして、碇シンジ庵野だとして、最初は人差し指のみでぎこちなく弾いていたのが、渚カヲルのピアノの技術に数秒で追いつく。

つまり、自分は宮崎駿の技能にすぐ追いつく事が出来るという自信をあの連弾のシーンで表現したのではないかということだ。

1997年に発売された「スキゾ・エヴァンゲリオン」の中で庵野は既に宮崎の後継者を自認しているが、2012年時点では確信に変わっていたのではないだろうか。そして2013年には「風立ちぬ」の堀越二郎の声を担当し、名実ともに宮崎の後継者となった。

話を「エヴァQ」の続きに戻す。エヴァ13号機でセントラルドグマ最深部に潜る前に碇シンジのチョーカーを渚カヲルが受け取る。

つまり、庵野のトラウマであるパロディの呪いを宮崎が引き受けるのである。

この時点で庵野のトラウマは解消されていいかもしれないが、深く鋭く心身に刻まれているトラウマを完全に消し去るにはまだ十分ではない。

もう一つ、セントラルドグマリリスに刺さっているロンギヌスの槍。これも庵野のトラウマのメタファーである。

つまり、自身がパロディで成り立っているという恐怖や怒りが心の奥底に槍のように突き刺さっているという表現ではないのであろうかという理解である。(カシウスの槍については後述する)

そして、ダブルエントリーシステムのエヴァ13号機でロンギヌスの槍を抜いた事でおそらく庵野のパロディに対するトラウマからはほぼ解放されるがまだ終わりではない。最後の儀式が必要とされた。

それは渚カヲルの死=庵野による宮崎の父親殺しをの決行である。職業人としての父親である宮崎の死によってようやくパロディの呪縛から庵野は解放されたのだ。

あの映画は庵野のプライベートフィルムであり、そこで宮崎を殺す事でトラウマを解消した。極上のエンターテイメントを装い、とんでもない事をやりお仰せたのではないか。

エヴァQはそういう映画だったのではないかと個人的には思っている。当たっているか外れているかは分からない。私はそう思ったと言うことである。

そしてさらに、庵野のトラウマはパロディだけにあるものではない。もうひとつ大きなトラウマ、性にまつわるトラウマはまだ全く解消されていない。

そのトラウマを象徴する存在が唐突に現れたカシウスの槍である。

そして、性に関するトラウマはパロディに関するトラウマの比でない可能性が高い。

次のエントリーでは、性に関するトラウマがどのようなものであるのか考察してみたいと思う。

「僕らは結局コラージュしか出来ないと思うんですよ。それは仕方ない。オリジナルが存在するとしたら、僕の人生しかない。僕の人生しか僕は持っていない」(庵野秀明 「スキゾ・エヴァンゲリオン」)

庵野秀明 スキゾ・エヴァンゲリオン

庵野秀明 スキゾ・エヴァンゲリオン

庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン

庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン