若手社員の気になる傾向
さぷさんです。若手社員の頃は生意気と言われていた事がありました。恥ずかしながら若気の至りですね。
さて、最近若手社員(といっても20代後半〜30代前半)とやり取りをしていて気になった事があるのでその事について書いてみたいと思います。
1つ目の気になったやり取りですが、30代前半の女性社員から問い合わせを受けた時の話です。何を聞きたいのかいまいち明確ではなく、そうするとこちらも原理原則を言うしかないですから、模範解答を伝えたところ相手の機嫌が悪くなるというなんだか訳のわからないもらい事故のようなやりとりがありました。
もう一つは、グループの進捗ミーティングをしていて、僕はその日あるウェブセミナーを聞く予定だったのですが、同じグループの20代後半の男性社員はその日に別のウェブセミナーを受けるようでした。
スケジュールは共有されているので他の社員のスケジュールも見れるのですが、その20代後半の男性社員が自分の今日の予定を報告するときに「今日はウェブセミナーを聴講します。たぶんさぷさんさんも同じだと思いますが」と言っていて、実際は全然違うウェブセミナーだと言うのは知っていたのですが、思い込みってちょっとこわいなと思いました。
ここで話はちょっと全然変わるのですが、幼児にとっての「鬼ごっこ」遊びはとても重要であるそうなんです。
赤ちゃんと言うのは自分では何も出来ず、喜怒哀楽の表現のみで主に母親に食事やおむつや眠くなったときの要望を伝えないといけません。
自分の要求をほぼ100%他者に依存するという、ある意味怖ろしい状況ですが、つまり「自分の願望=世界そのもの」という世界に赤ちゃんは生きています。
つまり、泣けばミルクが貰えたり、おむつを替えてもらえて、満足すれば笑えばいい訳です。
この「自分の願望=世界そのもの」というのは大人になり厳しい世の中を生きていくためにはかなり厄介な世界観になってしまいかねない訳ですが、そこで鬼ごっこが有効であるそうなのです。
鬼ごっこは数人で鬼と鬼以外に別れて鬼が鬼以外を追いかけますが、幼児はここで自分と自分以外のお友達は役割が違うという事を学びます。
また、自分も鬼になったり、鬼以外になったりする中で、役割に応じて行動を変えねばなりません。
そして、思い通りに相手を捕まえたり、また捕まえられないように逃げたり出来る事ばかりではない訳ですから、「自分の願望=世界そのもの」という世界観の修正を余儀なくされるそうなのです。
もちろん鬼ごっこが全てではないと思いますが、そうやって幼児は他者という存在を発見し、大人に向けての成長を少しずつ進めていくのだと思います。
ここでようやく本題に戻るのですが、僕の懸念は「自分の願望=世界そのもの」の世界観をかなり引きずったまま年を重ねてしまった若者が増えてしまっていないのか?という仮説です。(今のところ2例しかありませんが。。)
1つ目の女性は、あいまいな要望を相手にぶつけても自分に心地のよい回答をしてくれるという願望があったのではないか、また2つ目の男性はありがたいことに僕のことをいろいろ頼っくれているのですが、きっと同じウェブセミナーだろうと思い込んでしまったのではないかと言うことです。
この原因としては、これも仮説ですが、おそらく世の父親が優しくなり、子供への共感が増したことの悪いほうの側面画出てしまっているのではないかと考えています。
僕の父親は団塊の世代のちょっと下なのですが、僕の意見は一切聞かずに相当理不尽な怒られ方をした事が何回もあります。
これは全くいい事ではありませんが、ごく身内であっても「コミュニケーションの余地が全くなく、曰く理不尽」という強烈な体験ではありました。
僕の人格形成の中で、僕の事に興味や理解が全くない他者が存在するというのは少なくない部分を占めているような気がするのですが、他の人の話を聞いたり本を読んだりしていると、大なり小なり昔の父親は理不尽な存在であったような気がします。
子供に対して強烈な他者性を発揮していた父親が子供の良き理解者になる事で、子供の「自分の願望=世界そのもの」という厄介な世界観の維持に貢献しているとしたら、それはそれで宜しくない事態であると言えます。
社会人としてビジネスの場で重要なのは利害や思想、目的が不一致だったりバラバラな状態のステークホルダーとのベクトル合わせと協力にあるからです。
そもそも自分に興味を持ってもらえず、もちろんベクトルも合ってる訳がないという冷めた視点から始めるか、相手も同じ事を考えているはずという楽観的な視点から始めるのか。
僕は後者はあまり成功するイメージがありません。
ちょっと気になる傾向ですので、これからも若手社員をウォッチしていこうと思います。