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さぷログ

メーカーの人事部門で働いています。

マルクス・アウレリウスなら尊厳死をどう考えたのだろうか?

さぷさんです。まだ(もう?)43歳なので死を考えるには早すぎるかもしれませんが、ではいつから考え始めればいいのかというとそれもよく分かりません。

さて、つい最近も嘱託殺人の事件が大きく報道されました。しかし、その前提となるそもそもの死について、または生についての議論は深まっているとは思えないですし、人それぞれの死生観や信仰している宗教も様々な訳ですから、国民的な合意というのはとても難しいと思います。

死ぬ権利を尊重するとして、それを認めるとした際に悪用する人間は絶対に出てくると思うので、僕が仮に厚労省の担当者だとしたら(そんなことは逆立ちしてもありえない訳ですが)、相当なストレスで胃をやられてしまうと思います。

最近、賢人皇マルクス・アウレリウスの自省録を読んでいるのですが、死についての記述がありました。

「あらゆる行動に際して一歩ごとに立ち止まり、自ら問うて見よ。「死ねばこれができなくなるという理由で死が恐るべきものとなるのだろうか」と」

かなり苛烈な言葉ではありますが、僕自身に当てはめると、仮に明日死ぬ事になったとして、仕事はお給料を貰っているので真面目に取り組んではいますが、これをやり残しては死ぬに死ねないというものは残念ながらありません。

友人については、会いたい人もいますが、人生の残りがあと24時間だとして、どうしても会っておきたい人がいるかというと、こちらも残念ながらそこまでではありません。

そうなるとやはり家族ですが、ふたりの子供達が成人になるまでは、保護者とよき相談相手でありたいと思っていますので、死んでも死にきれないものがあります。

おそらく、最後の24時間の大半を使って、成人するまでに1年1通の手紙を書きたいと思います。

上の子がいま11歳なので、9通。下の子が8歳なので12通。それぞれの誕生日で読んでほしいので21通を24時間以内に書けるかどうかという事になると思います。

妻にはやはり財産ということになりますが、口座とかの暗証番号は伝えてある中で、やはり感謝を伝えたいと思います。これは口頭でいいのかなと思います。

自分が死ぬ際に両親がまだ生きていたとしたら、やはり感謝とお詫びは伝えないといけないと思います。義理の両親にも同様です。

突き詰めて考えると、家族に対する思いしかないのではないかと思いました。

そして、マルクス・アウレリウスの問に対しては、今自分がしているひとつひとつの事に対して、「死ねばこれができなくなるという理由で死が恐るべきものとなるのだろうか」と問われると、「ひとつもない」というのが正直な回答になります。まさかのゼロ回答です。

上記のとおり、家族への想いはあるとして、日常でそれはあまり伝えてませんが、それはなんとかしたいとして、いま僕の日々の行動というのは、死を恐れるべきではないというとても心強い説得理由になりそうです。

つまり、マルクス・アウレリウスは生を「何かを成し遂げるための手段である」という明確な哲学に基づきこの文章を残したのではないかと思うのです。

一方で、「生きている事そのものに価値がある」という考え方もあり、今の日本はなんとなくですが、こちらの考え方がマジョリティではないかと思います。

生とは手段なのか、目的なのか、この問いに正解はないと思いますが、日頃から自分なりの答えを自問自答し続ける事が大切なのだと思います。

尚、いま生死について深刻な状況に置かれている方やそのご家族、ご友人の方が仮にこのエントリを見たらあまり気のよいものではないとも思います。「差し迫った状況にない中でえらそうな事を言うな」と。お詫び申し上げます。