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さぷログ

メーカーの人事部門で働いています。

日本の住宅には柵や塀がやたら多い事を考える

さぷさんです。街歩きが大好きです。

さて、街歩きをしていると日本の住宅にはやたら柵と塀が多くて、「敷地と敷地の境界線には壁を作っておかないと落ち着かない民族なのだな、日本人は」と思いながらひとりでぶらぶら歩いています。

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例えばこの写真なんですけど、民家とセブンイレブンの境目の空間です。

この白い柵なのですが、これはちょっと本当に必要なのかしら?と思わずにはいられません。

多分セブンイレブンの柵だと思うのですが、隣の民家はそれなりに築年数が経ってそうな中で、セブンイレブンが後から出来たのではないかと想像しているのですが、セブンイレブンの建物を建てるときのルールなのかもしれないと思うものの、これはちょっと本当にいらないと思うんですよね。

しかもこういうほぼ無意味(失礼)そうな柵や塀はちょっと歩けばすぐに見つけられるくらい街に溢れています。

もちろん防犯対策は重要ですが、意味をなしていないとしか思えないものもかなり見かけるように思います。

日頃見慣れてしまっていて、全く意識をしていないものでも、注目すればそれが逆に気になって仕方なくなっしまうことを「用在性」と言うようで(ハイデガーの本は読んでおらず、孫引きなのでもしかしたら間違っているかもしれません)、無意識だからこそそこに日本人の特徴的なものが潜んでいるかもしれません。

もしかすると柵と塀を張り巡らせたがる我々ジャパニーズという民族は、墾田永年私財法以来の小作農としての私有地に対するこだわりが強いのかどうかは分かりませんが、内と外の論理が強いのは多くの人が論じている所です。

日本という島国があり、住んでいる地方があり、氏子があり、家があるというマトリョーシカのような入れ子構造であるのが日本の仕組みなのではないかと思っています。

話は変わるのですが、自民党菅首相が「自助、共助、公助」が大切だと言ったことは記憶に新しくて、全くその通りだと思います。

ただ、僕も含めて多くの人々は、自助はもちろん頑張りますが、地縁血縁がそうとう薄まってしまっている中で、最近の新型コロナウイルスの影響で失業してしまった方のドキュメンタリーなどを見ていると、失業なとで自助が行き詰まると自殺を考えてしまうというなんともやるせない状況の方がおり、実際に自殺は増えてしまっているそうですから、共助、公助はあまり機能していないような気がします。

僕はちょっと前まで地方に住んでいましたが、その地方はまだ地域の運動会とか、新年は神社に集まっての新年会とか、かろうじて地縁は残っているので、困ったことがあれば町内会長さんに相談してみる事が出来るかもしれません。

また、僕自身は特定の宗教を信仰している訳ではないのですが、創価学会立正佼成会などは、現世利益を重視していると言われており、佐藤優の言うとおり信仰を軸にした相互扶助団体と捉えたほうがある意味正確ではないかと思っています。

創価学会立正佼成会の施設の外観を見ていても、宗教施設というより、立派な公民館というほうがしっくりきます。

あと、一時期の日本企業は共助団体の側面を持っていましたが、会社共同体に本気で依存している人はほとんどいないのではないでしょうか。

そういう状況ですから、日本人特有の内の論理として、私達の頭の中の無意識の構造として、日本国という島国という内があり、中間団体が一切なくて個人という内のみがあるという状況にもしかするとなってしまっているのかもしれず、それがネトウヨを生み出す土壌になっているかもしれません。

会社においても開発、生産、販売はだいたい自分たちのムラ意識で動いていますし、内と外の論理は私達に深く根ざしている行動原理なのだと思います。

そして街中に溢れる柵や塀は私達の行動原理と外への警戒心が具現化したものに他ならないという事なのだと僕は理解しています。

確かに防犯対策は大切ですが、内と外を明確に区別しすぎて他人に不寛容になる事はよいとは思えません。

私達の無意識の他者排除の傾向に気が付くところから始めるしかないと思っています。