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さぷログ

メーカーの人事部門で働いています。

歓送迎会の幹事をすることで若手が鍛えられる文化がなくなる(悪いことではない)

さぷさんです。最近戦国時代モノのはまっていまして、この前後輩から社内チャットで「眠いですw」と入ってきたので「お主、鎌倉殿から任されている職責を一所懸命に果たしてこそ、もののふの誉ではないのか。」と返したら返事が来ませんでした。確かに鎌倉幕府は滅亡しており、弊社とは何ら関係性はありません。後輩の育成に失敗したようで無念です。

さて、新型コロナウイルスの影響で会社の歓送迎会が一切無くなり、ウェブでの歓送迎の集まりが弊社でもニューノーマルとなりました。業後の2時間の歓送迎会+二次会がたった5分で終了するという画期的な変化です。

今回は飲み会の幹事はいろいろ勉強になる側面もあったという事について少し書いてみたいと思います。

事業というのはヒト、モノ、カネですが、飲み会は参加者、モノはないですが歓送迎というイベント性、会費をどうするかなど、ある意味ちょっとしたプロジェクトのようなものです。

例えば、役職者の定年退職であれば格が高めなお店がいいでしょうし、新人の歓迎会なら逆にカジュアルなお店がいいと思います。

また、職場の人員構成がどうなっているかも重要で、特に女性は会費にシビアです。酒豪の方もいますが、あまり会社のオフィシャルな歓送迎会では飲まれないため、割り勘にはせず、僕が幹事の時には男女平等の世の中ですが会費には差をつけていました。また、管理職は会費をやや高めにしつつ、派遣社員の方は断りやすい雰囲気を出すことが大切だと思います。

会費の徴収も事前にしておくとドタキャン率を下げられるので、前日まで集めたり、ドタキャンがあった場合でも幹事無料のコースにしておいて、料理代だけの支払いにすれば、欠席者からもらう会費も低く抑えることが出来ます。

そして当日の最初の挨拶、乾杯の発声、締めの挨拶は偉い人に依頼しないといけないので、上司にも相談しながらそれぞれ早めに頼む事が大切です。

加えて、送別会になると花束はデフォルトとして、寄せ書きとかビデオレターのサプライズとかを準備すると、主賓の方もとても喜ばれます。僕も他の本部の本部長に色紙をお願いした事がありましたが、とても喜んで頂きました。

飲み会では基本的に入口近くに座って注文役に徹し、主賓の挨拶の時間などを常に頭におきつつ、盛り上がってなさそうな所に行って話をするなど、全体を見渡すようにします。

また、場合によっては二次会の場所も抑えて、スムーズな誘導をしつつ、カラオケの一曲めは率先して歌い、あとは盛り上げ役に徹します。

特に偉い人の送別会幹事だと帰宅後に(決して酒の飲み過ぎではなく)ぐったりする訳ですが、翌日は普段通りかむしろ早めに出社して、会費が余った場合のバックや二次会参加者への会費徴収などがある場合は参加者に朝イチでメールします。お金については即時にきっちりしておく事がとても重要です。

と、ここ迄書いてきて、とても昭和的と言いますか社畜的と言いますか、なんでここ迄やらないといけないのかという気もします。

今の若者は長期雇用に期待せず、給与水準、仕事内容、数年以内の獲得能力にこだわりますから、(仮に新型コロナウイルスがなかったとしたら)そもそも飲み会に参加したがらない中で、幹事とか本当に金払って貧乏くじ引くとかありえないみたいに感じると思います。

ただ、仕事が丁寧な人は飲み会の幹事も丁寧ですし、仕事が残念な人は適当に予算組んで足りなくなって後日追加で払ってもらうなど、飲み会でも残念です。わざわざ飲み会で若手の育成をしなくていいと思います。

いろいろな場を自分の成長に繋げられる人はどのような機会でも自分のものにしていきますし、残念な人は基本的にいろいろ残念ですから、会社の飲み会が若手を鍛える場であったというのは間違いなくあったとは思いますが、(仮に新型コロナウイルスが発生していなかったとしても)そういう時代ではなくなったのだなと思います。

住宅ローンの金利がどう決まるのか、正直な書き方を金融関係者は誰もしてくれない

さぷさんです。マイホームは買いたくない派で、住宅ローンについてかなりマニアックに調べたことがあったのでその事について書いてみます。

住宅ローンの記事は山ほど読みましたが、金利の決まり方についてはなんかよく分からないなーと思っていました。

大体の記事において、「固定型は長期金利と連動し、新規発行の10年物国債が指標になる。変動型は短期金利と連動し、企業に貸し出す際の優遇レートである短期プライムレートと連動する」とかさらっと書かれる訳です。

あと、固定金利変動型やミックス型もありますが、結局は固定金利と変動金利の組み合わせですから、基本を抑えておけば応用はなんとでもなります。

さて、金融機関に勤めておらず、上の説明が一発でわかったらかなりの天才だと思います。僕もさっぱりわかりませんでした。連動とか指標とか奥歯にものが挟まったような書き方な訳です。

ただこれがあまりどストレートに書くと読者が気を悪くするので婉曲的な書き方だというのが分かるまでにだいぶ時間がかかりました。

お金を融資する側の金融機関のビジネスモデルというものは、基本的に金利差でサヤを抜くか手数料で稼ぐかのどちらかしかない訳です。

住宅ローンは前者の金利差でサヤを抜くという方に当てはまる訳ですが、銀行の自己資本比率バーゼル合意後は8%、取引先が国内のみの場合は4%ですから、多くの銀行は借金しながらビジネスをしている訳です。

そして銀行自身が予算ポートフォリオを組む時に、短期は短期、長期は長期でポートフォリオを組みます。長短の金利が逆転などしてしまったら、金利リスクで利益が吹っ飛ぶどころか、構造的にマイナスのポートフォリオが出来上がってしまうリスクが高まってしまいます。

ですので、銀行はおそらく短期金利ポートフォリオを組む時に短期プライムレートで資金調達して、それに利益と住宅ローンを組むお客さんの貸し倒れリスクのプレミアムを乗せて金利を決定しているのだと思います。

そう言う事ですので、連動とか指標とか言う言葉で誤魔化していますが、銀行側から住宅ローンを見ると冷徹なビジネスの論理で成り立っている訳であって、住宅ローンを借りる側へのやさしさなど当然1ミリもありません。

また、固定金利も同様ですが、10年物国債を買うのと固定金利で住宅ローン商品を売るのとどっちが楽にサヤ抜けるのかと言うことですから、そりゃ10年物国債がプラスの利回りであれば、そちらを買うと思います。(つい最近までマイナス金利だったので長期金利の運用担当者の方は生きた心地がしなかったと思いますが)

ですので、固定型の住宅ローンは10年物国債の利回りより高めに設定しておかないと銀行としてはビジネスとしての旨味がない訳ですね。

そして、短期プライムレートの貸出資金は無担保コール翌日もの等で調達されると思うのですが、コール市場は日銀が公開市場操作をしており、10年物国債も黒田日銀が絶賛買入れしてますから、要するに住宅ローンを組みたい人は日銀の金融政策決定会合の議事録にきちんと目を通して、今後35年を予測した上で購入する住宅ローンを決定すべきだと思うのですが、寡聞にして住宅ローンを組む際に金融政策決定会合、ひいては我が国の将来の経済情況を気にしている人を聞いたことはありません。

ですが仮に「今後35年間、日本のファンダメンタルズはおそらく低位安定を継続する可能性は高いと見込まれ、日銀も資産を積極購入し続けるだろうから住宅ローンは変動金利を選択する」という人がいたら確かに引きます。

ただ、個人的には財政規律が緩んでいた所を新型コロナウイルスがさらにぶっ飛ばしたので国債の国内消化率が高いとはいえ、近い将来どこかで財政危機が訪れてもおかしくないと思います。

ちなみに今から30年前はバブル期真っ盛りでありましたから、金利は最高で8.5%あったそうです。それが30年後に全期間固定金利ですら0.8%台でありますから、結論から言うと誰も30年後の金利など予測できないと言うことです。

そんな訳で悪いことは言わないから固定金利にしておくといいという事になるのですが、目先の安さに惹かれたのか、窓口で絶賛オススメされたのか、変動金利を選ぶ人がそれなりに多いようですが、悪い意味での金利上昇が発生したらどうなってしまうのかしらと思います。

まあいろいろ考えるタイプはいつまでたっても家が買えないわけであって、それもそれでよくないとは思いますが、住宅ローンの決まり方についてはファイナンシャルプランナーの方含め、もうちょっと率直に金利の決まり方を伝えてほしいと思います。

「住宅ローンを組みたい人は、銀行の長短どちらかのポートフォリオの一部に組込まれた訳であって、銀行の利益とあなた方の貸し倒れリスクのプレミアムもしっかり織り込まれてますよ」とか、、まあちょっと無理でしょうね(笑)

人の話についていくためにできる限り努力せよ

さぷさんです。4連休ですが、予定がまったくありません。

さて、過去にコンサルタントと呼ばれる方とご一緒に仕事をさせて頂くことが何度かあったのですが、優秀なコンサルタントの方にはある共通した特徴があります。

僕は人事系なので、人事系の業務に関する事をコンサルタントの方と話す際、例えば社員に割り当てられたIDの事を会社によって「社員番号」「従業員番号」「社員ID」「従業員ID」など、様々な呼び方があると思うのですが、話の流れで敏感に察知して、その会社の用語で話してくれるのです。

これは、クライアント側のコミュニケーションコストを下げるために意図的に行っている事なのだと思います。例えば「社員番号」を使っている会社に対して、「社員ID」という言葉を使ってしまう場合、クライアント側に脳内で用語の変換を強いる訳です。

些細な事であったとしても、ただでさえプロジェクト的な業務は脳に負担をかけるので、余計な負荷はかけずにより本質的な所にリソースを割いてもらおうというプロフェッショナルな姿勢があるのではないかと思っています。

加えて、最低限の業界用語は知っていないと話になりませんから、本を読んだりして勉強する事は大切ですし、分からなかった単語は後で調べておく事が大切だと思います。

また、ミラーリングと言いますが、相手が自分と同じような振る舞いをしていると、本能的に人は親近感を得ると言いますか、落ち着きを得るものです。

言葉遣いや立ち振る舞いなど、相手を真似するだけで親近感が上がる訳ですから、例えコロナによってウェブ会議が増えていたとしても、さり気なく相手と同じポーズを取るというのは有効なケースがあるかもしれません。

あと、メールも同様です。相手が自分を「○○さん」と書いていたら、こちらも「△△さん」と返したほうがイメージが良いでしょうし、改行が多めな人にはやはり改行を多めに、またスマホからメールを送っているようであれば読みやすいように逆に改行を減らすという配慮があるといいと思います。

自分のスタイルを確立するのも大切ですが、相手によって臨機応変にスタイルを変えることが出来るのも同じくらい重要です。

と、いろいろ書いてきましたが、タイトルにした「人の話についていくためにできる限り努力せよ」というのは、最近読んでいるマルクス・アウレリウスの自省録に出てくる言葉です。

その後に続くのは「物事の結果や原因の中へ心で入り込むようにせよ」となっています。

つまり、相手が発する言葉で物事の構造を理解し、深く入り込む事が重要であると言っているのです。

ローマ皇帝コンサルタントとして今でも通用するような言葉を残しているという事に驚くとともに、本質的な事と言うのは早々変化するものではないという事なのだと思います。

トヨタの人事部もあかんですか。

さぷさんです。いつになるかは分かりませんが、このブログもそのうち実名顔出しがいいなと思ってます。顔が見える個人が活躍する時代ですからね。

さて、少し前にトヨタの人事部を3年でやめた方のnoteが話題になっていました。

僕はなぜトヨタの人事を3年で辞めたのか
https://note.com/kazushi_takagi/n/nc5076eda7a2f

以下のくだりなど、なかなか衝撃的な記述になっています。

「3年目も後半に差し掛かってきて、ふと周りを見渡すと、10人いたはずの人事同期は既に半分以上が辞めていた。」

2年前の状況だと言うことですが、トヨタの人事部もなかなかあかん感じです。中途入社比率を上げるというニュースもありましたが、やむにやまれぬ事情があるという事なのかもしれません。

詳細を拝見すると、元々は調達への配属を希望されていたところ、人事部への配属となり、給与計算や福利厚生のグループ会社に出向になり、2年目の後半で労政室に異動になったそうです。

労政と言えば人事系の部門の中では最重要の部門なので、2年目の後半で異動というのは相当に優秀でかつエリートコースです。労使協調の中では最強のトヨタ自動車労働組合とやり合うわけですからね。そういう事を当時の上司はしっかり説明されたのかどうか気になります。

また一方で、10人いた同期が半分以上やめたという事ですから、少なくとも3年以内に6人が辞めてしまった中で、人のやりくりがトヨタであっても苦しい中での異動であったかもしれません。

ただ、エントリーの中でも、異動については納得されていないように見受けられますので、やはりしっかりした説明はなかったのではないかと思います。

最近の若者は長期雇用に期待せず、給与水準、仕事内容、数年以内の獲得能力にこだわると言われています。

自動車だとCASEでしたり、VUCAの時代の中で経営者は外部環境の変化に対してはかなり敏感で打ち手の検討と対策を進めていますが、激変しているのは社内の若手や中堅の労働感や会社に対する関わり方も考え方の変化も同様に激しいものになっています。

組織は規模が2倍なると表面積が2倍、体積は3倍になります。組織を維持するだけでも相当な労力が必要です。

制度というものは、今起こっている事象に後追いで作るというものであるため、作った時点で既に古いものである事が多いというのが制度という仕組みが持っている構造的な宿命です。

制度は常にアップデートが必要ですが、大企業では少し変更するだけでも多大な労力が必要です。

ただ、大企業の全てが悪いかというとそういう事ではなくて、デイビッド・アトキンソン氏が言うように、日本の生産性の低さは、中小企業に手厚く、規模の経済が発揮されてないという点にあります。

そして規模の経済は分業が前提となります。

さらに、メーカーというものは誰かがボルト締めたり、経理伝票を処理したり、CADで設計したりと、社内エッセンシャルワークというものは必ずあるものです。

労働における納得感とは、仕事を任せる際のしっかりとした説明と、情報共有、自己決定感です。

マネージャーはオーバーコンプライアンスとハラスメントや過剰労働への注意という足かせがかけられているのは同情すべき点ですが、部下と真に向き合うことなく己のマネジメントの仕方を変えられないと、優秀な部下から辞めていきます。

特効薬と言うものはなく、自部門の仕事の意義と目的、部下と真摯に会話するという極めてオーソドックスな方法が一番有効なのではないかと思います。ただ、これはマネージャーの能力に頼った方法という弱点があります。

本気で組織から変えようとしたら、ディスコのような社内通貨の発行と運用もあると思います。

いずれにしても以下のコメントは若手の心の叫びです。

「閉塞感に、耐えられなくなった」
「自分の人生を生きている感じがしない」
「自分1人では何も変えられない」

大げさかもしれないですが、マネージャーは部下の命を使って一体何を成し遂げていくのか?と言うことです。上司だからと言う事を聞けというのはマネージャー失格です。会社を運営する側として、今の仕組みの問題を改善できない限り、会社が若者から見捨てられるというある意味真っ当な時代になったのだと思います。

「与える人こそ成功する」は2000年前にもうマルクス・アウレリウスが言っていた

さぷさんです。最近お気に入りのサンドイッチ屋さんがあるのですが、コーヒーも必ず買うようにしています。

コンビニのコーヒーも十分美味しくてしかも安いのですが、お店にとって飲み物は利益率が高くて儲かる訳です。ファンとしてお店を応援したいというちょっとした気持ちが大切かなと思っています。

さて、よくインフルエンサーの方などが「ギバー、テイカー、マッチャーの中で、キバーになる事が大切。まずは自分から与えて、見返りは期待しないこと。また、誰にギブするかは重要で、搾取するだけの人にはギブしない事」みたいな事を言ってたりします。

ギブアンドテイクじゃなくて、ギブアンドギブが今っぽいしエモいよね()みたいな一部の意識高い系界隈の認識としてあるような気がしていますが、最近マルクス・アウレリウスの「自省録」を読んでいる中で、マルクス・アウレリウスはギブの重要性を既に見抜いて実践されていた事にちょっと驚きました。

少し長いですが引用します。

「ある人は他人に善事を施した場合、ともすればその恩を返してもらうつもりになりやすい。第二の人はそういうふうになりがちではないが、それでもなお心ひそかに相手を負債者のように考え、自分のしたことを意識している。ところが第三の人は自分のしたことをいわば意識していない。(中略)誰かによくしてやったら、それから利益を得ようとせず別の行動に移るのである」

この部分に書いてあることは、ほぼテイカー、マッチャー、ギバーの説明になっています。

本屋に行けば自己啓発本は山のように置かれていますが、だいたい文字も大きくてすぐに読み終わるようなものばかりです。お手軽なものはだいたいが役には立たないのと、自己啓発本はだいたいタネ本がある中で、どうせならタネ本を買ったほうがいいと思っています。

僕が気を付けているのは、相手に何かギブする時は相手を選ぶものもちろん大切なのですが、相手が感動するレベルのギブをしないとあまり意味がないかなと思っています。人は貸した金は覚えていますが、借りた金は忘れがちです。ちょっとしたギブはすぐ忘れ去られるのではないかと思っています。

では、感動するレベルのギブとは例えばどういう事なのかというと、他部門から今の僕の仕事とは直接関係がない内容の相談があったとして、相談にも乗りつつ次の日にはその部門で使えるようなパワポのスライドを気合いで作成して、よかったらどうぞと渡したりすることがあります。

前職のシステムエンジニアとしての経験などがあるのでちょっとニッチな部分に強かったりするのですが、全社的には必要だと思っている課題があるとして、それに貢献すれば会社としてはプラスな訳です。

自分の仕事を中断して、他部門の作業をする訳ですから、越権行為ですし上司に見つかったら怒られる訳ですが、そこは上手くやります。

ちなみに相談があってからすぐに資料を渡す事が重要です。他部門に相談するという事は相当切羽詰まっていると言う事です。という事は、その資料がほぼそのまま他部門の正式資料として使われる可能性が高まります。

つまり、自分が解決したいと思っていた事のお手伝いをしつつ、自分がやりたい方向性の資料にして相手に渡すわけですから、ある意味アンオフィシャルに他部門に対して影響力を行使していると言えなくもありません。

ですが、資料を渡した側からは「こういう資料が欲しかった」と言ってもらえ、ギバーとしても成り立ってると思います。

そして、手伝った事を忘れた頃にまた相談があって、僕の問題認識と一致していたら同じ行動を取る事もあります。もちろん、相手が誠実ではない場合は手伝いません。

つまり、ギバーと言うのは、自分が成し遂げたいけれども、立場違ったり直接対応する時間が取れない中での最善手として行っている人が実は多いのではないかと言う事です。

ただそれは、物事を公平に見て、あるべき姿に誠実に取り組むから他人を動かせる訳であって、私利私欲では人は動いてくれません。

ギブしたとして、明確で分かりやすい短期のメリットというはありませんが、他部門の公表前のプロジェクトとその問題点を事前に知ることが出来たりする中で、会社をより立体的に把握することが出来ます。相談してくれた当事者以外とは誰にも話せないのですが、情報は知っているだけで価値があるものです。

マルクス・アウレリウスローマ皇帝として帝国を統治する中で、よい統治をする為のギブの重要性に気付き、「自省録」に書き留めたのではないかと思います。

人類の祖先が二足歩行を初めて約300万年くらいなので、2000年前はつい最近の出来事です。人間の本質はそう変わるものではないと思っています。

「私の家政夫ナギサさん」はコロナ禍における私達の物語でもあった

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さぷさんです。43歳のおっさんですが、料理も家事も得意です。アップルパイも作れます。

さて、先日の最終回では視聴率が19.6%を記録して、2時間スペシャルも放送される「私の家政夫ナギサさん」について書いてみたいと思います。

ネットでいろいろな記事が書かれており、悪い人が一人もいないとか、安心して見ていられるとか、全くもってその通りだと思います。

そんな中でYahooニュースはコメントを書き込めるのですが、書き込みコメントはどのような全体の傾向があるのか気になりました。

気になりだすととまらない性格なので、最終回直後の記事に対するコメントを約400個、約30000文字をテキストマイニング大好きっ子御用達のKH-Corderで分析してみました。

ちなみに「なぎささん」となっていたのは「ナギサさん」に変換したり、メロンパン号への言及が「メロン」と「パン」で分かれてしまわないように「メロンパン」の複合語にしたり、データ分析は地道な作業です。

上の図は共起ネットワークと言うのですが、丸が大きければ大きい程単語としての出現回数が多く、線でつながれているのは文章としての関連が高いと言う事になります。

ちょっと意外だったのが「メイ」より「ナギサ」さんが多い事です。メイの出現数が90個に対して、ナギサさんは160個ありますから、2倍近くになります。

逆に、「多部未華子」と「大森南朋」の出現数は逆転しており、面白い現象だと思います。

また「メロンパン」と「田所」さんの出現数はほぼ同じで、「MIU404」の人気の高さが伺えると共に、瀬戸康史は好演していたと思います。

あとは「ありがとう」「最高」という感謝の声や、「優しい」「癒やし」という感想、特別編を楽しみにしているコメントが多かったという結果になりました。この辺は順当だと思います。

さて、では「メイ」より「ナギサ」さんへのコメントが多かった理由はどう解釈すればいいのでしょうか。

おそらくこういう事なのではないかと思っています。コロナ禍の今、私達は自分が思っている以上に母性的なものを求めているのではないでしょうか。

自分の弱みを補ってくれて包んでくれる母性です。「メイ」にとってはそれが家事や食事であったり、無理して働こうとした時には心配してキツめに注意してくれる「ナギサ」さんは人生のパートナーとして必要不可欠な人でした。

私達も「メイ」と同じで、何らかの足りない部分を持っており、しかもコロナ禍の中で心が弱っています。

いつも見守ってくれて、足りないところを補ってくれる母親のような存在を求めているのは私達も全く同じで、「私の家政夫ナギサさん」は私達の物語でもあったのだと思います。

ちなみに「多部未華子」が多かったのはファッションセンスのよさへの言及が多かった事が理由のようです。

また、コメントの大半は「メイ」と「ナギサ」さんの恋愛パートですが、最終回はかわいい後輩の瀬川遥斗(眞栄田郷敦)のMRとしての成長と先輩社員としての「メイ」のフォローの仕事パートもかなり丁寧に書かれていたと思うのですが、恋愛パートのインパクトが強かったからから、ほぼコメントはありませんでした。

ですが、仕事パートを丁寧に書くことで、仕事は完璧だけど家事が滅法弱いという「メイ」が際立ち、より共感できるドラマになっていたと思います。

仮に新型コロナウイルスがなくても大ヒットしたと思いますが、「私の家政夫ナギサさん」は時代が求めたドラマで、ドラマも想像以上に時代の要請に応えてくれたのかなと思った次第です。

マルクス・アウレリウスなら尊厳死をどう考えたのだろうか?

さぷさんです。まだ(もう?)43歳なので死を考えるには早すぎるかもしれませんが、ではいつから考え始めればいいのかというとそれもよく分かりません。

さて、つい最近も嘱託殺人の事件が大きく報道されました。しかし、その前提となるそもそもの死について、または生についての議論は深まっているとは思えないですし、人それぞれの死生観や信仰している宗教も様々な訳ですから、国民的な合意というのはとても難しいと思います。

死ぬ権利を尊重するとして、それを認めるとした際に悪用する人間は絶対に出てくると思うので、僕が仮に厚労省の担当者だとしたら(そんなことは逆立ちしてもありえない訳ですが)、相当なストレスで胃をやられてしまうと思います。

最近、賢人皇マルクス・アウレリウスの自省録を読んでいるのですが、死についての記述がありました。

「あらゆる行動に際して一歩ごとに立ち止まり、自ら問うて見よ。「死ねばこれができなくなるという理由で死が恐るべきものとなるのだろうか」と」

かなり苛烈な言葉ではありますが、僕自身に当てはめると、仮に明日死ぬ事になったとして、仕事はお給料を貰っているので真面目に取り組んではいますが、これをやり残しては死ぬに死ねないというものは残念ながらありません。

友人については、会いたい人もいますが、人生の残りがあと24時間だとして、どうしても会っておきたい人がいるかというと、こちらも残念ながらそこまでではありません。

そうなるとやはり家族ですが、ふたりの子供達が成人になるまでは、保護者とよき相談相手でありたいと思っていますので、死んでも死にきれないものがあります。

おそらく、最後の24時間の大半を使って、成人するまでに1年1通の手紙を書きたいと思います。

上の子がいま11歳なので、9通。下の子が8歳なので12通。それぞれの誕生日で読んでほしいので21通を24時間以内に書けるかどうかという事になると思います。

妻にはやはり財産ということになりますが、口座とかの暗証番号は伝えてある中で、やはり感謝を伝えたいと思います。これは口頭でいいのかなと思います。

自分が死ぬ際に両親がまだ生きていたとしたら、やはり感謝とお詫びは伝えないといけないと思います。義理の両親にも同様です。

突き詰めて考えると、家族に対する思いしかないのではないかと思いました。

そして、マルクス・アウレリウスの問に対しては、今自分がしているひとつひとつの事に対して、「死ねばこれができなくなるという理由で死が恐るべきものとなるのだろうか」と問われると、「ひとつもない」というのが正直な回答になります。まさかのゼロ回答です。

上記のとおり、家族への想いはあるとして、日常でそれはあまり伝えてませんが、それはなんとかしたいとして、いま僕の日々の行動というのは、死を恐れるべきではないというとても心強い説得理由になりそうです。

つまり、マルクス・アウレリウスは生を「何かを成し遂げるための手段である」という明確な哲学に基づきこの文章を残したのではないかと思うのです。

一方で、「生きている事そのものに価値がある」という考え方もあり、今の日本はなんとなくですが、こちらの考え方がマジョリティではないかと思います。

生とは手段なのか、目的なのか、この問いに正解はないと思いますが、日頃から自分なりの答えを自問自答し続ける事が大切なのだと思います。

尚、いま生死について深刻な状況に置かれている方やそのご家族、ご友人の方が仮にこのエントリを見たらあまり気のよいものではないとも思います。「差し迫った状況にない中でえらそうな事を言うな」と。お詫び申し上げます。